震災時に私たちは何をなすべきか を考える | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 1995年1月の阪神淡路大震災のあと、2月に入って早々に、当時、知り合ったばかりのピースボートのスタッフ(辻元さんとか)と一緒に神戸の長田まで行きました。まずは、何ができるのか、するべきか、を考えるためにも現地を見たいという想いが強かった、という記憶です。新大阪から先は、在来線とバスを乗り継いで行ったと思います、焼け跡のような状況に衝撃を受けました。もう20年前です。

 2011年の5月には、東京で集めたカンパと意外と手に入りにくかったタバコを持って仙台、女川に行きました。

 今回の九州の震災についても、多くの人が心配していると思います。そして、何かできないか、居てもたってもいられない、という人も多いだろうと思います。こういう感性を狭い範囲、たとえば自分の地域とか、日本とかに限定せずに発想できる中に、未来の可能性を感じます。

 一方、こういう大震災が起こると、どうしても思考が停止しがちです。そりゃそうだ。大変だあ!って話なのですから。だからこそ、冷静に事態を把握し、状況を見極めるための努力は必要だと思います。

 具体的に災害の被災者に何ができるかを考え、自分なりの行動を実行し、一方、停止しがちな思考をなんとか継続しつづけること、そのことに意味があると思います。

 95年の経験は、その後のサリン事件(3月20日)と共に、支援の継続性の重要性といわゆる「ショックドクトリン」的な政府の政治利用に用心すべき、ということを自分の中で得た気がします。その教訓は自分なりには2011年の3.11をどう捉えるかで、一定活きたとは思います。ただ、3.11は、東京でも当事者性は高かったので、冷静にはなれませんでしたが・・・。

 こういう時にあまりに冷静、というのもちょっと信頼おけないあり方で、一定、我が事としてうろたえたうえ、次を考えるというのが、まあ、いいのかなあとは思います。

 なんらかの被害を現に受けている人たち・・・それが、災害でも、そして戦争でも・・・そういう人たちに目を向け、なんとかしよう皆で!と考える発想を変な方向に持って行かれたくないです。ナショナリズムとかね。

 とりあえず、同じ過ちを繰り返さない、という意味では、何かあった場合、とりかえしのつかない原発の停止をした方がよいと思います。川内原発、心配です。