昔(30年くらい前?)、ミックジャガーのインタビューを読んでいたら、「人は、それまで食べたもので出来ているいんだよ、だから、ちゃんとしたもの食べないとね」というミックの発言があり、「アンタが言うか?!」とドラッグの69年をくぐり向けた人は違うな!と感動と感嘆と感慨のインパクトでした。
ところで今読んでいる三谷宏治著『戦略読書』に、「ヒトはそれまでに読んだものでできている」というフレーズがあり、ミックの発言を思い出しつつ、「確かに」と思った次第。
まあ、イマドキですと、テレビとネットで出来ているヒトも多いのかもしれませんが、そういうヒトの「・・・らしい」話や「・・・だって」というような根拠・原典が怪しい話は正直うんざりで、やっぱ「本」程度は読んでの知識はないとな、と思います。
法律実務の世界でいえば、要は法律・条例などがどうなっているか、ということが必須であり、それ以外の役所、裁判所などの「こうなっています」という紋切り型の回答には「法的根拠は?」と問い返すだけです。悪しき運用は納得する根拠がありません。したらおかしい。
つまり、根拠となるような確実な知識は必要であって、そのような知識は大抵は書物から得られるということです。
テレビでも新聞でもネットでも「検索」のヒントにはなりますが、原典にあたらなければ根拠にはならないことは当然です。まあ、そうでなかったら怖いか。
それでも、日常は結構、そういう曖昧な根拠で成り立っていたりしないでしょうか。
「私はこれは出来ます。」とか「これはわかります。」とか言える分野は誰にでもあるでしょうが、それは、かなりの経験か、書物の熟読による獲得と思います。
本を読む、といっても、かつての司法試験の頃のギリギリ感のある獲得と記憶を目指す訓練に迫るような局面はそうそう多くはないのですが、事件ごとに、時に、「自分はこの事件を隅から隅までわかっているか?」と問い直し、読み返すことはやはり必要です。
人が何ができるか・・・というのは精神的・肉体的知識によると思いますが、やはり確実なものは読んだ知識ですね。実務法律家というのは疑り深いですからね、新聞記事だって「記者の主観だろ?警察発表の鵜呑みじゃないか?」とか当然に思いますし、人の話を鵜呑みにはしません。強いて言えば、「新聞記事にはこう書かれている」という事実、「この人はこう発言している」という事実を把握し、その内容は別途追求します。つまり「証拠」の熟読で。
・・・という意味では、本だって鵜呑みはできないのですが、優れた本は気合いが入れられており、そう易々と根拠なし、とならないようには書かれていると思います。まあ、そういう本でないと意味はありません。
ということで、人はそれまで読んだもので出来ている、自分の中で確実な知識となっているもので出来ているというのは実感しますね。事件も、思想も、日常も。
読書→実践→さらに読書→実践、の繰り返しで、自分を磨いていかないと、と思う日々です。