刑事事件 誰と闘うのか? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

ブログの説明を入力します。

 悔しいやら、納得できないやら、くさくさして、判決書を取り寄せたものの見る気もしませんでしたが、「そういう時こそ、やりたくないことをやるべきだろう」と思い直し、先日(12/24)、高裁でひっくり返された、ひき逃げ事件の判決を読みました。

 一審無罪から懲役1年6月執行猶予4年へ・・・私も悔しいですけど、被告人本人の現実の厳しさは堪りません。奥さんと小さなお子さんのいる立派なビジネスマンです。任意同行→逮捕→取り調べ(黙秘対応)→起訴→保釈のときは起訴休職、一審無罪判決でやっと復職、そして高裁有罪判決で再び・・・。

 めまぐるしく人生が左右されています・・・このことに私は弁護人として責任を感じます。ただ弁護人だからということではなく、私の刑事弁護人としての一挙手一投足が私の判断であり私の能力だと言えるからです。そう言える程度にこの事件には入れ込み、一つ一つの決断について具体的に責任を背負っています。

 判決を読む(法廷で1時間聞いたのですが)と、改めて、納得できない点が多数確認できます。「それもそうだよな」というような判決であれば仕方ないと思うところかもしれませんが、この東京高裁の判決は、概ね「疑わしくは罰せず」という無罪推定のスタンスに立っていない「悪しき日本刑事裁判スタンダード」のうえ、一つ一つの認定自体に偏りが明らかと思えるからです。
 
 なぜ、検察側の証人を「鑑定」人と同等に扱うのか、その証人を科捜研よりも重視するのはなぜか、証言の信用性判断など一つ一つが納得できません。根拠が示されず、裁判官の主観を「経験則」と言われても納得できません。

 とりわけ、この手の判決でいつも思うのですが、被告人の供述の評価です。
 本件の被告人は取り調べ段階で黙秘を貫いたので調書はありません。しかし、いわゆる罪状認否、そして被告人質問などでは自分の認識を述べました。

 被告人とは打ち合わせのうえ答えてもらったので、その供述にはすべて私も責任があります。その供述が信用できない、という認定が有罪の一つの根拠とされています。

 刑事事件では、客観証拠がすべて、のはずではないでしょうか?私の経験からすると、被告人の供述は「減点法」で有罪の根拠とされるだけのものであり、法廷であっても被告人に供述させることは、リスクはあっても、メリットを感じることは滅多にありません。

 被告人が法廷で供述するのは、たいていは証人尋問の最後ですから事件とされている日から、かなりの時間が経っているのが現実です。本件でも1年以上経過した後でした。当然、ディテールの記憶は曖昧になります。その被告人の供述の重箱の隅をつつくような正確性の揚げ足をとるのではなく、被告人がどう言おうと、その他の証拠で判断するのでなくては、いつまでも自白の偏重はなくならないでしょう。

 現在の刑事裁判の法廷は、この事件のように被告人の犯人性を争う裁判でも「被害者の意見陳述」等を認めるという「茶番」が繰り広げられるようになっています。被告人による被害を確定する裁判で、その確定前に「被害者」が現れる矛盾に刑事裁判官は「法律で決まったから」と耐えているようです・・・しかしねえ・・・。

 厳しい事件であり、最高裁は、これまた厳しいのですが、そもそも無罪を争うというのは厳しいものであり、これから先闘うことを諦める理由にはなりません。最高裁と闘います。刑事事件は検察官が相手のようで、現実には裁判所が闘いの相手だと思います。裁判所を組み伏せるように追い詰める必要があります。

 私も被告人も、まだやりたいことがあります。再審を先取りするような攻撃的な闘いを上告審で行いたいと思っています。