四面楚歌、そんな気分の年末を過ごしている人も多いと思います。アメリカ政府、日本政府、韓国政府が、景気向上のアナウンスをどんなに流しても、庶民の私たちの目の前の景気は別物=現実だからです
子供の貧困は、他人事ではなく、自らもしくは隣人の現実です。しかし、例えば「日本の子供の貧困は厳しい状況にある」と語るということと、語られるまでもなく「私の貧困の状況」を現実として体験するということは、案外、距離があると思います。
弁護士の仕事をしていて思うことは、この資本主義社会において、なんだかんだ言っても「お金がない」ということほど、辛いことはないだろう、ということです。そして、お金がない、というのは今の世の中では、恥ずかしいことで他人に伝えにくく、また、他人からはわかりにくい、ことなのだと思います。
20年くらい前に、東京のホームレス状態の人々に関わりだした頃、基本的に、そのような人々に対する世間の認識は「好きでやっている」「なまけもの」「仕事はいくらでもあるのに」だったと思います。
私の知る限り、ホームレスを好きでやっている人はいませんでした。昨日も都庁の近くの路上でダンボールを体にまとい寝ている方がいましたが、路上で寝るということは厳しいことです。冬は死ぬかもしれないし、夏は暑くて眠れない、そもそも、自分が路上で人目に常に晒されながら寝ることを想像できるでしょうか?
私は、新宿の地下道からの排除やその他相談を受けている96年頃、まだあった新宿の地下のダンボール村の一角の「部屋」で打ち合わせをしたりしていましたが、地下だから雨も降らないし、温度という点でもまだ、路上よりマシでしたが、落ちつかないことこの上ありませんでした。
なかなか、他人の現実を自分の現実として捉えることは難しいことだと思います。
自分が一番大変で、自分が一番辛いときは、他人がどれほど大変なのか、なんて構ってられないし、また、自分が平気なときは、他人もいうほどたいしたことないんじゃないの、みたいな。
なかなか、他人を思いやる、というのは難しいことだと思います。「消費者の購買意欲を図る」でもなく「視聴者の好みを把握する」でもなく、ただ他人を思いやる、ということです。
余裕が必要なのでしょうか、それとも、同種の体験が必要なのでしょうか。どちらも必要かな。しかしどちらも簡単には得られませんね。
むしろ、わからないことはわからないというスタンスの方が正直というか誠実かもしれません、私は、親しくなったホームレスのおじさんたちに対しても「よくわかりますよ」とは言えませんでした。
しかし、それでも、突き放すのとは違って、思いやりを持って距離を縮めたいですよね。職業のギャップ、世代のギャップ、国籍のギャップ、収入のギャップを本当の意味で縮めることができれは、と思います。
貧困の現実は、伝えにくい現実です。他人を思いやる気持ちが究極の競争社会=新自由主義の世界では減退しているとすれば、そのような新自由主義的な価値感を突破する何か=優しさ?思いやり?想像力?智慧?を育めるといいなあ、と思います。