スラヴォイ・ジジェクの『事件!』は、なかなか難しい本だと思いますが、彼が映画マニアであり、また、最近の世界の事象もかなりフォローしているのが面白いと思います。
と同時に、様々な事象について、「恋」を喩えとしてつかっているのもの面白いです。
ジジェクは、
実際、われわれは真剣に恋をしているとき、まさに何かに取り憑かれているのではあるまいか。愛とはいわば例外的状態が永遠に続くことではあるまいか。日常生活の適切な均衡が乱れ、すべての好意が心の奥にある「あのこと」に彩られる。
とか
こうした状況は善悪を超えている。恋をしているとき、われわれは親や子や友達に関する道義的義務に対して妙に無関心になる。・・・情熱的な恋と比べると、すべてが色あせて見える。
とか述べた上、「革命」について、
カントにとっては、パリの街路で実際に起きていた-しばしば血なまぐさい-現実よりも、フランスでの事件によって、ヨーロッパ中の、いや世界中の、共感的な観察者たちの心の中に湧き上がった熱狂のほうがはるかに重要だった。
「精神の豊かな国民による最近の革命は、成功するかもしれないし、失敗するかもしれない。たしかにこの革命は悲惨と残忍の極致ではあったが、それにもかかわらずすべての観察者(自身は革命に巻き込まれなかった人びと)の心の中に、ほとんど熱狂に近い欲望を、つまり彼らの味方をしようという共感を植え付けた。それを表明するだけでも危険を伴うのであるから、この共感が、人類の内にある道徳的素質によって引き起こされたことはまちがいない。」(カント)
と、恋の「例外的状態」と革命の呼び起こす「熱狂に近い欲望」を対置して描いたりしています。さらに、
たとえば、恋に落ちたとき、過去が変わってしまう。あたかもすでに・つねに彼女を愛していたかのように思われ、会う前から恋が運命づけられていたかのように思われる。現在の恋が、それを生んだ過去の原因になっているわけだ。
と、恋のある種の遡及効について言及した上、ローザ・ルクセンブルグとエデュアルド・ベルンシュタインの論争におけるローザの言葉として、
プロレタリアートは、「時期尚早」でなくして権力を掌握することはできない。
「時期尚早の」権力奪取に反対することは、結局のところ、国家権力を掌握しようとするプロレタリアートの希望全体に反対することに他ならない。
と展開します。つまり、恋も革命も行ってしまうまで見える世界と、行ってしまってからの世界の見え方はまったく違う、という・・・。
こんな風に、展開する話でなかなか面白いのですが、かなり難しい部分もあり・・・読み込まないと、と思います。
さらに、ところどころで、
いまや資本家も労働者もともに資本主義的投資家になってしまった。しかし、マルクスによれば、労働と資本の交換契約が結ばれた後にあらわれる「登場人物の人相」の違いと同じものが、本物の資本主義的投資家と、「自己の起業家」として行動せざるを得ない労働者との間に、ふたたびあらわれる。・・・彼に押し付けられた選択の自由は偽の自由であり、彼の奴隷労働の形式そのものなのである。
などと現在の「起業家」という労働者階級のあり方についても、鋭く言及をしていたり、刺激的な本だと思います。
案外、「冒険」を促しているのでしょうねえ。自由とは、冒険だし、はみ出すことだし、自己を疑うこと、そういうことを改めて気づかせてくる感じです。