いつも笑顔で仕事をこなし、さりげない会話にもユーモアが混じる、感じのいい人・・・それは、時々よるラーメン屋の店員さんだったり、宅急便の配達員だったり、もちろん、職場の人だったり、誰にでも思い当たる人はいるのでは、と思います。
やっぱり、日々の何気ない会話、ちょっとした世間話、身の回りのことを伝え合うことは気持ちのいい人間関係の「潤滑油」なのかもしれません。まあ、余裕がないと、そんな会話もできなくてギスギスするだけで・・・。
目の前のこと、それは、仕事だったり、家族のことだったり、いろいろでしょうけど、一所懸命こなしていく・・・そういう人たちは、誰からも愛されるでしょう。
私もそういう人が好きです。身の回りの人のためになることをしよう、それが社会というか、人間関係の出発点だし、そういう気持ちより尊く、好もしいことはないでしょう。
ストライキの思想は、その人たちに、その一所懸命日々をこなしている愛すべき人たちに、その手を止めよう、と呼びかける発想です。社会を動かしている全ての善き人たちに、「その手を止めて仕事を妨害しよう」ということです。もちろん、ストライキには目的があり、経済闘争であれ、政治課題であれ、その目的が故の手段としてのストライキであるわけです。
・・・だとしても、そんなこと簡単に合点がいくわけがない、と思います。真面目に生きるために、その仕事の手を止めよう、と言われても・・・。真面目であれば、真面目であるほど、優しければ優しい人ほど、目の前の仕事の手を止めることに抵抗がある、はずです。だって、困る人が出てくる・・電車が止まる、流通が止まる、電気や水道まで止まったら・・・?
誰かに命じられてやるのではない、自分の発想としてストライキを行う。必ずしもわかりやすくないだろうな、と思います。時に、まるで逆らうために逆らっている、反対すること、流れに逆らうことに存在価値があるかのように見えるのではないかと思います。
自分の生活のための営みの手を止める・・・そんなことできるのだろうか?自分だってどうだろう?「地獄への道は善意で敷き詰められている」と言われても・・・。
確信を持っている人たちだけが社会にいるわけではありません。むしろ、まだまだ、少数でしょう。そして、確信を持っていない人が悪いわけではない。むしろ、愛すべき人々、本当の意味で善き人たちがそこにいると思います。
今の社会のあり方を問い、常識的な振る舞いに疑問を投げかけ、むしろ、逆らうことを奨励し、「世界」をいったん止める、はみ出す発想としてのストライキ。
私は、まだ、うまく伝えることが出来ていません。自分の中にも確信が出来ていないのかもしれません。でも、身近にいるその人に伝えられなければ意味がないですよね。さらにさらに精進が必要だなあ、と思っています。日々、精進。