先日、クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』をDVDで見ました。女性でも子どもでも一発で殺してしまう殺人者が主人公の話ですが、自分に妻子がいる、という設定です。本当の殺人鬼というのは、自分のタスクとして殺人を行うことができる人だとすると、彼はまさにそのような凄腕のスナイパーで、アメリカ資本と政府のイラク侵略に、正義と家族を守るためという洗脳を施されたまま加担し、大量殺人を行います。
彼の中では「仕事だから」という整理が行われるわけですが、本日、国会前で一所懸命、警備をする警察官を見ていて同じだな、と思いました。
彼らも、ひょっとしたら誰かに「なんで、そんな戦争法案を作ろうとしている国家を守るんだよ?戦争したいのかよ?」なんて尋ねてくれる親しい友人や家族がいるかもしれません。「う~ん、戦争や俺だって嫌だけどさ、まあ、仕事だから」「仕事だったなんでもやるのかよ?」「政府も国を守るためにやってるんじゃないの?それに、国会前にあつまる人たちを安全に誘導するのが役割だしさ」「そんなの規制しているだけだろ?」「いや、国会前の学生だって『警察官のみなさん、ありがとうございます』なんて言ってくれるんだから、わかってくれるよ」・・・みたいな会話しているかもしれません。
いずれにせよ、客観的には戦争法案を成立させようとしている政府・国会を私たちから守る、というのが彼らのやっていることで、ふざけるな!とちゃんと伝えてあげるべきでしょう。
立派な兵隊として頑張るアメリカン・スナイパーも悲惨な最後を迎えるわけですが、仕事だろうと、役割だろうと、あの日、あのとき、あなたがやった役割は戦争のための行為だと歴史が評価するでしょう。警察官には、一生、トラウマのように自問してほしいと思います。
翻って、私たち。「ねえ、お父さんは、あのころどうしていたの?」といつか子どもに尋ねられるかもしれません。いや、もう尋ねられているかな。「お父さんは会社の仕事が忙しくてさ、それどころじゃなかったんだよ」とか「ああ、たくさんの人が反対してたけど、デモとか無駄だからさ」とか「法律が出来たって、抵抗できるよ」とかね・・・まあ、いろいろ答えはあるでしょうね。
けど、どんな風に、誰かにうまく答えようと、肝心なのは、自分で自分に対して問うときの答えでしょうね。
「何故、私は、あのとき、見過ごしたのか?」という自問。
う~ん、本当に忙しかったんだよ、他にやることが山ほどあってさ、ともかく稼がなきゃいけなかったから、自分やお前たち家族のためで手一杯だったんだよ・・・本当かな? 本当に、全く、何にも出来なかったのかな?他のやり方もも工夫しなかったのかな?
そういう自問は、避けようとしても一生、つきまとうと思います。どれだけごまかそうと、はぐらかそうと。・・・私はそう思うけどな。
「仕事」・・今の世の中じゃあ、稼ぐことをやっている奴が一番えらい、稼ぎにもならない反戦デモなんて「仕事」じゃない、そんな価値観だと思います。それでも、死んだ後でも、尊敬されるようなことをしていきたいな、と思います。