ラディカルな現実、あるいは現実的なラディカル | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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「君がどれほどラディカルであるのか、また私がどれほどラディカルであるのか、私にはわからない。きっと私は十分にラディカルでないだろう。人が十分にラディカルであることなど決してありえない。それはつまり、人は現実そのものと同じだけラディカルであろうと常に努めなければならない、ということだ」

 これは、チューリッヒ亡命中のレーニンの言葉だそうです。ここでは、「現実」が最もラディカルである、ということを革命家レーニンは指摘しているようです。この後、レーニンは、革命を現実のものとします。

 白井聡さんは、革命と呼ばれる社会現象は、社会内に潜在していた諸矛盾が爆発的に露呈する、つまりリアルなものを押しとどめていた殻が破れて社会の本当の中身が溢れ出てくることだと指摘しています(『未完のレーニン』)。


 アベノミクスで「景気いいよ♪」キャンペーンでどれだけごまかそうとしても、目の前にある明日どうなるかわからない賃下げ、増税、年金引き下げ、教育費値上げが、私たちの「現実」。もう溢れていますよね、本当の「現実」が。仮に「今」をなんとかやり過ごせるとして、未来はどうなるのか?

 「現実」が最もラディカル・・・なのか。その、ラディカルな「現実」から目を背けずにいられるか。

 テレビのCMでは、絵空事の世界が描かれている、綺麗な空、美しい自然の中の道路、幸せな一軒家に住む、幸せな家族・・・。そこには、放射能まみれの空気、渋滞と排気ガスの道、オーバーローンの家と疲れ果てた家族の「現実」はありません。

 1%の支配のためにメディアや教育でごまかそうとしても、どうしようもなく溢れ出す「現実」。つまり、「このままでは生きていけない、未来に展望もない」という99%にとっての「現実」。
 実際、ちょっと前の「一億総中流」なんて言われた時代からすれば、少子高齢化、実質賃金の低下継続、非正規40%越え、そして、放射能汚染、改憲情勢など想像を超えた「現実」が目の前にあります。

 ラディカルとは、その「現実」を直視し、立ち向かう現実主義の思想であり、その逆ではありません。
 人は現実そのものと同じだけラディカルであろうと常に努めなければならない・・・厳しいけれど、結局、生きるとはそういうことではないかな、と思います。