「諧調は偽りである。真はただ乱調にある。」 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 大杉栄の言葉です。ときおり「自分の感覚ってちょっと変なのかな?」と思うことはあるのだけど、世の中、同じように感じている人は案外、いるものです。栗原康さんの『現代暴力論』(角川新書)はすこぶる面白いですが、特に冒頭のこの辺り、本当に合点。たぶん、わたしもいた首相官邸前の反原発行動についてです。

「1年前のデモとは様子がかわっていた。駅の出口のほとんどが警官によって閉鎖されていて、ひとつの出口からしか出してくれない。それも警官が規制をかけていて、数分おきにちょっとずつしか外にでられない。ディズニーランドのアトラクションまちのような行列だ。いらだった若者が『ジャマなんだよ』と警官にくってかかっているが、そこにスタスタと腕章をまいた20代くらいの女性がやってきた。デモ主宰者というか、ボランティアスタッフみたいなものだろう。わたしは『まあまあ』といなすくらいのことをするのかなとおもっていたら、その女性は大声をだしてこういった。『おまわりさんのいうことをきいてください。お仕事のめいわくでしょう』。どうかしている。」(『現代暴力論』)

 「ディズニーランドのアトラクションまちのような行列」と表現されてますし、また、「カラオケ大会」という学生もいましたが、つまりは、権力側の警察と「協調」しながらの反対行動なんてなんだかなあ、ということだと思います。

 同じようなことを大正時代に言っている人を栗原氏は紹介しています。
 「元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理をもっている人間が、実に多い。たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手かっさいのしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノウノウとか簡単とか言えば、すぐ警察官と一緒になって、つまみだせとか殴れとかほざきだす。なんでも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員会とかいう名をもらって、赤い布片でも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。奴等の言う正義とはなんだ。自由とはなんだ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけのことだ」(「新秩序の創造」『大杉栄全集第5巻』)

 アナキストの大杉栄の言葉ですが、極めて自由な感覚が100年前にはあったのだなあ、と感慨深いですね。

 私も「別に、俺は、戦争に向かわせようとしている政府に反対しようと思ってここ(国会前)にきているのであって、「抗議」自体を安全にしたいわけではない。」というのが、素直な実感です。

 許された範囲の「表現の自由」なんてどうでもいいです。力を持つとも思えません。権力側から見れば、「おうおう、そこで好きなだけガス抜きしててくれれば一番いいよ。しかも、自分たちで抑えているなんて、なんてお利口ちゃん」って思うのではないでしょうか。

 デモにせよ、集会にせよ、そしてゼネストにせよ、権力に対しインパクトを持つのは、それが大衆の力を表しているからだと思います。そして、その力とは、結局は、何をするかわからないという(権力にとっての)不気味さを本質に持っているからこそ、権力をビビらせ、下手をすればとって変わられると思わせることが出来るのではないでしょうか。

 だからねえ、警備する警察官の「お仕事」というか立場っていうか、役割っていうか、そういうの理解してあげながら「協調的に闘われる」、その意味で誰にとっても「安全」な反原発運動・反戦運動って、簡単にいうと権力を追い詰める迫力を持たないんじゃないの?と思います。

 100年前(1918年)、日本人民1000万人が加わったといわれる「米騒動」に感動した大杉栄は気に入らないだろうなあ。昔の日本人は、もっと、暴れまくっていたようです。