「え?、あなたは日本が好きじゃないの?」って尋ねられることがあります。答え方としては、①「誰よりも好きだからいろいろ考えて、発信しているんだよ」②「日本って何?」という問いで答えるパターン。
本音としては、そういう人の日本を知りたい、というのはあります。興味があります。
民族と国籍がごっちゃになっていたり、言語と人種があまり区別されていなかったりします。場所や風物、文化と国家が混同されていることも多いと思います。それを整理する意味、必要性は「今」だから感じます。
いわゆるナショナリズムとか愛国心というものは、「標準語」で作られた概念=「道具主義」、つまりは、支配の都合により作られたもの、という発想があります。それに反発を感じる人は結構居るような気がしますが、その場合は、案外、根拠の説明は難しく、「好きだから好き」みたいな、いわゆる反知性主義みたいなことに終わる危険があります。
安倍政権の「道具」は、このあいまいな「日本」=「美しい国日本」にあると思いますが、食べ物や音楽や恋愛ではないのだから、そこは、直感とかフィーリングみたいなテキトーな概念ではなく、しっかり考えたいと思います。時に生き死にに関わるわけだから。オバマ大統領にとっては「世界の警察アメリカ」だったり、それぞれの国で統合に必死だと思います。
そして、この国家、ナショナル、という概念の統合力は凄まじいものがあります。
「この時代、国内の対立を克服するために列強の政府や支配層が利用したもっとも有効な手段は対外膨張だった。・・・第2インターナショナルは労働者の国際的連帯を強調したが、現実に一般の労働者のはそれぞれ国民国家の枠組みのなかで暮らし、自国の富強を願う点では人後に落ちなかった。学校教育は彼らに愛国心を植えつけた。・・・第一次世界大戦の前夜、世界戦争の危機が迫るにつれ、若干の例外を除いて、各国の社会主義政党は戦争の危険を心配しながらも、自国政府の強行外交や軍備増強を暗黙のうちに支持するように変わっていった。『もういちど読む山川世界現代史(p66~67)』」というふうに、ある時点まで、戦争に反対して、国際連帯を訴えていた労働者組織ですら、戦争が近づくと「祖国防衛」に走ってしまったという現実があります。いわゆる「第2インターナショナルの崩壊」です。
で、日本好きなの?という点ですが、日本が国家を指す以上、到底、好きになれません。私の知っている日本=国家は、無慈悲な暴力そのものです。一方的、独占的に暴力を使うやり方は好きになれません。私の知る国家というのはそういうものです。皆さんの知っている日本とはどういうものでしょう?