「取調べの可視化」? 自分の頭で考えよう | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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これまで、なんどか書いてきたテーマですが、今にも法律が成立しそうなので、歴史的意味も込めて、出来るだけ、わかってもらえるように書きたいと思います。多くの皆さんが関心を持ちにくい事柄ですし、政府側もわざとわかりにくくしている問題です。その上、「人権の砦」のはずの日弁連がこの「取調べの可視化」を良きものとして容認してしまったことが、国会での全会一致での成立の危機をもたらしており、専門家以外の多くの皆さんの関心と理解を阻んでいるものと思います。

国家権力が、ニュートラルな意味での暴力の行使、つまり殺人(死刑)や監禁(刑務所での懲役刑等)を行うには、その対象者が犯罪を犯したという証拠に基づく裁判がなければなりません。これは、国家権力が自分に逆らう者を恣意的に陥れたり、また、誤ったりすることがある、という歴史の経験からくる制度的不信に基づくものです。つまり、「国家権力は濫用され誤って行使されるものだ」ということです。

それだけ権力的な暴力の行使の恐ろしさがあるから、ともいえます。日本では治安維持法時代の権力のやりたい放題な思想弾圧の歴史は誰もが知るところでしょう。

なので、証拠が重要です。証拠があれば、本人が何と言おうとも構わない、とも言えると思います。実際、否認や目標をしていても、他の証拠が揃っていれば有罪になることは当然の話です。「言い逃れ」をやすやすと見過ごすわけにはいかないのです。

しかし、十分な証拠が集まる場合は限られています。結果、捜査機関は本人を取調べ、自白させ、それを証拠とすることに腐心します。「ほら、本人も認めてますから」ということです。
しかし、しかし、この「取調べ」がクセモノなのです。とりわけ、全く証拠がないのに嫌がらせで逮捕した場合(今も公安事件ではよくあります)や証拠が不十分なため自白でその証拠の隙間を埋めたい場合などは、勢い「取調べ」は密室での過酷な恫喝の色を帯び、拷問の様相を呈する場合もあります。そもそも、日本のような長期勾留(逮捕から最大23日!)という密室の監禁下で一方的に行われる「取調べ」は原則、強制的と推測されると考えるべきでしょう。

取り調べには脅し、騙し、揺さぶりが行われます。「権力に逆らうとどうなると思っているんだ」と脅かす検事、「証拠は揃っているんだよ。ちゃんとしゃべった方いいぞ」と証拠を捏造しておきながらウソをつく刑事。何故、こんなデタラメで無理なことが行われるかと言えば、彼らにとっては真実を追求することよりも、一度、決めつけた対象者を犯人に仕立て上げることが「仕事」だからです。誰かが一旦、怪しいと決定してしまうとそれが一人歩きするようです。きっと「俺のまえに座らせられているということはそれなりの根拠があるに違いない(俺は知らないけど、誰かは知ってるんだろう)。だったらコイツが犯人なんだろう。がんばろう」というようなことだと思います。痴漢冤罪のパターンもさして根拠がなくても「電車から降りる→駅員室へ行く→最寄りの警察署に行く」で立派な被疑者の誕生です。この段階で、根拠なき疑いを持って取調べが始まるのです。

このような「取調べ」が密室で行われ、様々な違法・不当な権力行使の場になっているため、この取調べの状況を私たちに見えるようにするべきだというのが「取調べの可視化」という概念です。権力側でなく「私たち」が見ることが出来る、というのが権力を監視する観点で重要なことであるのは理解出来ると思います。

ところで、今、成立しそうな法律は「捜査機関による」取調べの録音・録画という制度の創設であり、「可視化」という文言も出てきません。何よりも録音・録画するのは捜査機関側であり、対象とされる被疑者や被告人、もしくは弁護人ではありません。義務付けると言っても「機材が壊れた」場合等、録音しなくてもいい例外だらけで拘束はユルユル、「録音してない」の一言で終わりです。

だいたい録音・録画が捜査機関側でなされる以上、「実際、何時、どんな場面が録音・録画されているのか」は私たちからはわかりません。権力側がウソをついてもそれを検証することは出来ないからです。

この朝日新聞の記事はあたかも、昨年、警察が「真面目に」録音・録画に取り組むようになった、数が20倍も増えた、良いことだ、みたいな印象を与える記事ですが、そもそもその内容根拠は「警察のまとめ」つまり、警察の発表です、メディアがそんなリークをありがたくも垂れ流す、つまり鵜呑みにするのであれば、ジャーナリズムとはいえないでしょう。警察発表を「鵜呑み」する感覚が、捜査機関の録音・録画をして「可視化」と読み替える権力に対する漠然とした信頼感に基づくものだと思います。ジャーナリズムとは権力を監視するのが本来の役割です。

いや、マスコミが悪いのではない、弁護士会が反対しないのだから、ということかとは思います。たしかに、今の日弁連には「国家権力は濫用され誤って行使されるものだ」という人権の感覚があまりに欠如しているどころか、どこか権力側の片棒を担いでいるつもりのようです。

ある意味、権力にせよ、世間にせよ、力を持つ者、声が大きい者がなんといおうとも「証拠」を直接、みなければ信じることは出来ない、そういう法律家の存在を肯定するのは近代以降の人類の知恵だと思います。他人がなんと言っていようと、自分で直接判断しようという姿勢です。

「取調べの可視化」キャンペーンに注意してください。いったい、実際に行われようとしていることは何かを、是非、自分で考えて見てください。とりわけ、在野法曹の皆様。よろしくお願いします。