ロジカル=論理的であることが、全てとは思いません。情緒的で感傷的なテキスト(文学、詩、歌詞など)に魅かれます。音楽もしかり。
但し、何かを判断し、財産や自由や、時には命をも奪う場合、つまり、損害賠償を命じたり、勾留や死刑という暴力を発動するような場面では、一方の当事者(例えば権力側の人)の「情緒」ではなく、出来るだけ普遍性を持つロジックが説得力を持つべき、だと思います。それが、皆の智恵というか。
とはいえ、論理的である、論理的テキストをモノにする、というのは集中と忍耐、つまり、孤独を要します。
細切れ時間ではなく、一定幅を持った集中こそが必要、ということはドラッガーを始め、多くの人が指摘しているところですが、ネットワークに囲まれた現代人にとっては、その「環境」「時間」を確保することは、それ自体、至難の技。さらには、様々な日常の気になること、不安、心配、悲嘆、雑念、迷いなどの障害をドリブルするサッカー選手のようにかわし、ゴールに集中する神経を研ぎ澄ますのは大変なことです。
ロジカルな集中とは、一定の時間内に様々な資料、材料の記憶を集積し、符合ないし矛盾を発見・認識しながら思考をまとめる、孤独な作業でしょう。
それは、スポーツ選手が試合に集中するのと同じく、まず自分との闘い、なのかもしてません。演奏、もそうかな。
そうやって、集中を忍耐強く継続していくと、アスリートのいう「ゾーン」のように、いわゆるカンが冴え渡る領域に達する瞬間があるような気がします。
・・・そこにはなかなか行けませんが、少しでもそこに近づく努力をすることが、集中であり、何かをクリエイトすることなのだと思うのです。プロたるもの安易に直感などというなかれ。精進、精進のすえ降りてくるものなのです。