なぜ、拷問的取調べがなくならないか? | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 最近、毎日のように取調べでの被疑者の供述がメディアにリークされています。被疑者の供述とは被疑者が取調べ警察官や検察官に話した内容ですが、もちろん、それがメディアに漏れるのは、取調官が意図的に流しているからです。

 このような「リーク」の内容が、本当かどうかはわかりません。メディアも検証しません。警察発表等を「垂れ流し」です。そりゃ、被疑者に直接、確認できないですからね。

 さて、では、そもそも、被疑者や被告人が罪を認めていれば犯罪者、という認定でいいのでしょうか。

 魔女裁判というのがあり、そこでは魔女である疑いを認めなければ認めるまで拷問されてそのまま殺されるか、認めた上殺されるか、だったようです。
 魔女と疑われた時点でアウト。

 今はそんなことないでしょ?って。自白をしたから犯人、ということで冤罪が数多く生まれています。

 自白を証拠として認めているからこんなことが起こるのではないでしょうか。被疑者がなんと言おうと言うまいと、客観的な証拠だけで犯罪を認定すればいいのでは?

 証拠が不十分な場合に限って、自白を強要しようとします。そこには捜査官の「カンという偏見・思い込み」があるのだと思います。自信があるのなら自白がなくても起訴すればいいのです。

 被疑者・被告人の供述内容の迫真性・現実性・具体性を云々するのは、前時代的であり、判断者の主観に負うところが多くて精度が高いとは言えません。

 当事者であり客観性が全くない被疑者・被告人の供述・自白など証拠として吟味するより、その他の客観的な証拠で犯罪を認定出来るか、否かが重要だと思います。

 あまりに自白に頼っているため、無理矢理、自白を得ようとする拷問的取調べが後を絶ちません。捜査官のリークに基づきメディアの情報だけに基づいて「犯人なのに否認している」などというワケのわからないコメントまで出てきます。

 事実とは何か、を判断するのは難しいです。ましてや暴力=逮捕・勾留(監禁)という力関係の中で被疑者がなんと言ったかなど、どちらにしても信用性が高いとは思えません。それゆえに黙秘権という知恵が出てきたのだと思いますが、未だ黙秘は卑怯、というような印象操作がされているように思います。

 黙秘とは誰にも説明をしない、という態度ではありません。権力を信用しないという思想です。弁護人としての経験から言っても、警察・検察が不都合な事実を自ら明らかにすることはありません。

 自白の証拠価値を最初から否定すれば、拷問は減ると思います。なくならないのは、少なくとも操作の端緒としては被疑者に取調べをする、という過程はなくならないだろうと考えられるからです。

 もちろん、世の中、本当に悪いことをする人はいなくならないでしょう。しかし、その「覚知」の方法は慎重にならざるを得ません。

 取調べ、なのか、拷問なのか。取調べの可視化よりも自白の証拠能力の限定化の方が、冤罪を減らせると思います。

 間違って無実の人間を罰することと、間違って犯人を取り逃がすのとどっちが嫌か、ということにもよりますけど・・・。もちろん、間違ったか否かの判断は慎重にする必要があります。

そもそも、客観証拠もないのに逮捕し、結局、黙秘により起訴出来ないというケースが後を絶たないということは、逮捕自体が「権力による根拠のない暴力行使である」ということなのです。