法律家にとって法律とは(但し私見) | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 最大の悪は、考えない人が命令(法律)に従うことでなされるーこれが、映画『ハンナ・アーレント』のメッセージだと思います。ここでいう「最大の悪」とは「ナチスによるユダヤ人の迫害」ですが、ある意味、そういう常套句で括ることによって「自分の頭で考えることの放棄」することを批判しているとも言えます。具体的に自分の頭で想起せよ、ということだと思います。

 法律の勉強をして、法律実務家になってよかったと思うことの一つは、法律がある、ということと、それが守られる、守らねばならない、ということとは全く別である、ということがよく理解出来た=「法律を相対化」できた点とも言えます。勉強する前は、法律はともかく守らなければいけないもの、正しいもの、違反は悪、みたいなイメージが漠然とあったからなあ・・・。

 法律にしろ、規則にしろ、さらに憲法にしろ、絶対のルールなどではあり得ません。何故、それがそう決められたのか、そして、それをどう使うかが重要であり、「法治主義」も、「民主主義」も、その建前より、何よりも自分の頭を使って考えることこそが重要だ、ということです。

 「法律でこうなっています」「法に従って執行します」ほど、無意味でかつ、時に、非人間的な行為が為されるときに使われる常套句はないでしょう。

 実務法律家は、「法の守り手」などでは決してなく、「法こそが正義」などとは思っていません。むしろ、違う地平に立ってこそ、人々の営みのために闘えると思います。

 ともかく、「法の支配」とか「立憲主義」とかわかったようなわからないことからいったん、離れましょう。自分の頭で考え、心で思いましょう。
 立憲主義を守るためために戦争反対だって?よくわからないなあ、他国の人々と自分の気持ちと関係なく、殺し、殺される関係になるのが嫌だから、一部の人の利益のために犠牲にさせられるのがたまらなく嫌だから戦争反対でいいんじゃない? 

 基本的に、今の法律というのは、わたしたち民衆から武器を取り上げ(物理的にも、精神的にも)たうえ、その引き換えに「議会制民主主義」という一種のフィクションで正当性を担保したかに見せかけられた「支配のためのルール」です。「絶対」でないのはもちろんのこと、「便宜」であっても「正義」ではないし、「モラル(道徳)」とは(重なるように見える場合があっても)、異なります。

 ある時代の、ある地域では、「賭博」が違法になったり、合法になったり、支配者の都合により使いわけられるのだから。

 法の存在を意識しつつ、それを利用したり、避けたりしながら、自分の頭で考え、選択し、行動することが、ますます大事な時代だなと思います。そして、―その状況下において、違うことも出来たのではないかと自身を問うことー、この問いを常に自分に問いかけ続けることが大事なのでしょう。キツいなあ。