高層マンションの屋上に立ち、眼下遥かに水面が映る。
魚も植物も居ない優雅さを少し演出するために作られた人工の水。
あえて理由がないからダイブできたのだろう…。
重力は今まで感じた事のないスピード感で応える。
しかしどんな時も後悔をするのが人の性のようで、
今更ではあるが間もなく生まれる我が子を見ぬまま終えるのか…と気付いた。
しかしどれだけ浅く深い悩みも次の瞬間に消え失せる。
あそこに着水した途端…いや、もはや着水などという生温いものではないだろう。
あの高さからでは水が衝撃を和らげるマットにはなりはしない。
その衝撃を感じるまでもなくこの世から抹殺されるのだ。
そう、考えようによっては潔いとも言えまいか?
まてよ、そういえば以前助かった俳優が居たような気がするのは?
それにしてもグダグダ頭を巡るのはどこまで往生際が悪い…
結局は物理的な力が加わらない限り覚悟はでき…

そう。僕にそんな芸当はできるわけがなかった。
彼女にことのあらましを伝えると酷く深刻で、
しかし見ようによっては陽気な趣で膨れた腹を抱えながら思案した。
「自殺か…」
記憶の彼方にある夢辞典によると、
予定日が随分と遡って訪れるようだ。

ついにこの装置が役に立つ時が来た!!
点滴スタンドのように移動用のコロコロと支柱を持ったその装置には
携帯電話の台頭で行き場をなくした公衆電話(プッシュホン)が真ん中に鎮座した。
このタイプは近頃の妊婦には流行のようで、
特に支柱から絶妙に生えるフックがその要因のようだ。
加えて当時の名残りである電話帳スペースが母子手帳をはじめ
あらゆる診察券、クーポン券の収納を可能にした。

「あぁなるほど、我が家のは当時よく見かけた"緑"のヤツか…
 安月給とは言え今時定職に就くのさえ難しいときている。
 この装置を持てるだけ恵まれているということか」

彼女が身支度を整えるために急いで奥へ移ると
吹き抜けのエレベーターからは両親が上がってくるのが見えた。
この日のために提携先のタクシー会社のオプションを
予め付け加えていた事に我ながら淡い達成感を抱きつつ、
そう言えばダイアル式の黒電話がプッシュホンに変わったあの日、
数ある選択肢の中からどうして冴えないあの色を選んだのか?
そんな疑問がふつふつと蘇ってきた。