問ふ、何を以(もっ)てか邪見の失(とが)を知らん、余(よ)不肖(ふしょう)の身たりと いへど(雖)も、随分 後世を畏(おそ)れ仏法を求めんと思ふ。願(ねが)はくは此(こ)の義を知り、若(も)し邪見に住せば、ひるがへ(翻)して正見(しょうけん)に おもむかん。答ふ、凡眼を以て定むべきにあらず。浅智を以て明らむべきにあらず。経文を以て眼(まなこ)とし、仏智を以て先(さき)とせん。但(ただ)恐らくは、若し此の義を明かさば、定めて いかりをなし、憤(いきどお)りを含まん事を。さもあらばあれ、仏勅を重んぜんには し(如)かず。其(そ)れ世人は 皆 遠きを貴み近きをいやしむ、但 愚者の行なひなり。其れ若し非ならば遠くとも破(は)すべし。其れ若し理ならば近くとも捨つべからず。人 貴むとも非ならば何(なん)ぞ 今 用(もち)ひん。
(平成新編0363~0364・御書全集1206・正宗聖典----・昭和新定[1]0559・昭和定本[1]0414~0415)
[文永04(1267)年12月05日(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[秘・念仏真言破折]
[※sasameyuki※]