二(ふたつ)に経に就(つ)いて信を立つとは、無量義経に四十余年(しじゅうよねん)の諸経を挙(あ)げて未顕真実と云(い)ふ。涅槃経に云はく「如来は虚妄(こもう)の言(ことば)無しと雖(いえど)も、若(も)し衆生 虚妄の説に因(よ)って法利を得ると知れば、宜(よろ)しきに随(したが)って方便して則(すなわ)ち為(ため)に之(これ)を説きたま(給)ふ」と。又 云はく「了義経(りょうぎきょう)に依(よ)って 不了義経に依らざれ」已上(いじょう)。是(か)くの如(ごと)きの文(もん)一(ひとつ)に非(あら)ず。皆 四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称(しょう)す。是(これ)皆 人をして其(そ)の経を捨てゝ法華涅槃に入(い)らしめんが為なり。而(しか)るに何の恃(たの)み有りて妄語(もうご)の経を留(とど)めて行儀(ぎょうぎ)を企(くわだ)て得道(とくどう)を期(ご)するや。今 権教(ごんきょう)の情執(じょうしゅう)を捨てゝ 偏(ひとえ)に実経を信ず。故(ゆえ)に経に就いて信を立つと云ふなり。問うて云はく、善導和尚も人に就いて信を立て、行に就いて信を立つ。何の差別(しゃべつ)有らんや。答へて曰(いわ)く、彼(か)は阿弥陀経 等の三部に依って之(これ)を立て、一代(いちだい)の経に於て了義経・不了義経を分(わ)かたずして之を立つ。故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義 壊(やぶ)れ了(おわ)んぬ。
(平成新編0160~0161・御書全集0077・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0280・昭和定本[1]0135~0136)
[正元01(1259)年(佐前)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]