なれども なをなを(尚々)末代の凡夫は をぼつかな(覚束無)しと をぼ(思)しめ(食)しや有りけん、十方の諸仏を召(め)しあつ(集)めさせ給(たま)ひて、広長舌相(こうちょうぜっそう)と申して無量劫より このかた(已来) 永く そらごと(虚事)な(無)き ひろ(広)くなが(長)く大なる御舌を、須弥山(しゅみせん)のごと(如)く虚空(こくう)に立てならべ給ひし事は、をびたゞ(夥)しかりし事なり。かう候(そうら)へば、末代の凡夫の身として法華経の一字二字を信じまいらせ候へば、十方の仏の御舌(おんした)を持つ物ぞかし。いか(如何)なる過去の宿習(しゅくじゅう)にて かゝる身とは生まるらむと悦(よろこ)びまいらせ候(そうろう)上、経文は過去に十万億の仏に あいまいらせて供養をなしまいらせて候(そうら)ひける者が、法華経計(ばか)りをば用(もち)ひまいらせず候ひけれども、仏くやう(供養)の功徳 莫大(ばくだい)なりければ、謗法の罪に依(よ)りて貧賎(ひんせん)の身とは生まれて候へども、又 此(こ)の経を信ずる人となれりと見へて候(そうろう)。此(これ)をば天台の御釈(おんしゃく)に云(い)はく「人の地に倒れて還(かえ)って地より起(た)つが如(ごと)し」等云云。地に たう(倒)れたる人は かへりて地より を(起)く。法華経謗法の人は三悪(さんなく)並びに人天(にんてん)の 地には たう(倒)れ候(そうら)へども、かへりて法華経の御手に かゝりて仏になると ことわ(断)られて候(そうろう)。
(平成新編1590~1591・御書全集1586・正宗聖典----・昭和新定[3]2277~2278・昭和定本[2]1911)
[弘安05(1282)年02月28日(佐後)]
[真跡・西山本門寺外二ヶ所(70%以上100%未満現存)、古写本・日興筆 富士大石寺]
[※sasameyuki※]