今云(い)はく、日本国中の四衆の人々は形は異(こと)なり替(か)はると雖(いえど)も、意根(いこん)は皆一法を行じて悉(ことごと)く西方(さいほう)の往生(おうじょう)を期(ご)す。仏法繁昌(はんじょう)の国と見えたる処(ところ)に一(ひとつ)の大(おお)いなる疑(うたが)ひを発(お)こす事は、念仏宗の亀鏡(ききょう)と仰ぐべき智者達、念仏宗の大檀那(だいだんな)たる大名(だいみょう)小名(しょうみょう)並びに有徳(うとく)の者、多分(たぶん)は臨終(りんじゅう)思ふ如(ごと)くならざるの由(よし)之(これ)を聞き之を見る。而(しか)るに善導和尚十即十生と定め十遍(ぺん)乃至(ないし)一生の間の念仏者は一人(いちにん)も漏(も)れず往生を遂(と)ぐべしと見えたり。人の臨終と善導の釈(しゃく)とは水火(すいか)なり。
(平成新編0313・御書全集0105・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0488・昭和定本[1]0312)
[文永01(1264)年09月22日(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]