宝塔品(ほうとうほん)の三箇の勅宣(ちょくせん)の上に、提婆品(だいばほん)に二箇の諫暁(かんぎょう)あり。提婆達多(だいばだった)は一闡提(いっせんだい)なり、天王如来(てんのうにょらい)と記(き)せらる。涅槃経(ねはんぎょう)四十巻の現証(げんしょう)は此(こ)の品にあり。善星(ぜんしょう)・阿闍世(あじゃせ)等の無量の五逆謗法の者、一をあげ頭をあげ、万ををさめ枝をしたがふ。一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあら(顕)はれ了(おわ)んぬ。毒薬変(へん)じて甘露(かんろ)となる。衆味にすぐ(勝)れたり。竜女が成仏、此(これ)一人(いちにん)にはあら(非)ず、一切の女人の成仏をあら(顕)わす。法華経已前(いぜん)の諸(もろもろ)の小乗経には、女人の成仏をゆる(許)さず。諸の大乗経には、成仏往生(おうじょう)をゆる(許)すやうなれども、或(あるい)は改転(かいてん)の成仏にして、一念三千の成仏にあら(非)ざれば、有名無実の成仏往生なり。挙一例諸(こいちれいしょ)と申(もう)して、竜女が成仏は、末代の女人の成仏往生の道をふ(踏)みあ(開)けたるなるべし。儒家(じゅけ)の孝養(こうよう)は今生(こんじょう)にかぎ(限)る。未来の父母を扶(たす)けざれば、外家(げけ)の聖賢は有名無実なり。外道(げどう)は過未(かみ)をし(知)れども父母を扶(たす)くる道なし。仏道(ぶつどう)こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあ(有)るべけれ。しか(然)れども法華経已前(いぜん)等の大小乗の経宗(きょうしゅう)は、自身の得道(とくどう)猶(なお)かな(叶)ひがた(難)し。何(いか)に況(いわ)んや父母をや。但(ただ)文(もん)のみあって義なし。今、法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母(ひも)の成仏も顕(あら)はれ、達多の悪人成仏の時、慈父(じふ)の成仏も顕はるれ。此(こ)の経は内典の孝経なり。二箇のいさ(諫)め了(おわ)んぬ。
(平成新編0562~0563・御書全集0223・正宗聖典0122・昭和新定[1]0813~0814・昭和定本[1]0589~0590)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]