『十如是事(法華経肝心抄・法華十如是肝心抄)』(佐前) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 此(こ)の道に入(い)りぬる人にも上中下の三根(さんこん)はあれども、同じく一生(いっしょう)の内に顕(あら)はすなり。上根(じょうこん)の人は聞く所にて覚(さと)りを極(きわ)めて顕はす。中根(ちゅうこん)の人は若(も)しは一日、若しは一月(ひとつき)、若しは一年に顕はすなり。下根(げこん)の人はの(延)びゆく所なくてつ(詰)まりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終(りんじゅう)の時に至(いた)りて諸(もろもろ)のみえつる夢も覚(さ)めてうつゝ(寤)になりぬるが如(ごと)く、只今(ただいま)までみ(満)つる所の生死(しょうじ)妄想の邪思(ひがおも)ひ、ひがめの理(ことわり)はあと(跡)形もなくなりて、本覚(ほんがく)のうつゝの覚(さと)りにかへりて法界をみれば皆寂光(じゃっこう)の極楽(ごくらく)にて、日来(ひごろ)賎(いや)しと思(おも)ひし我が此(こ)の身が、三身即一(さんじんそくいち)の本覚の如来にてあるべきなり。秋のいね(稲)には早(わせ)と中(なか)と晩(おく)との三つのいね有れども一年が内に収(おさ)むるが如く、此(これ)も上中下の差別(しゃべつ)ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と一体不二(いったいふに)に思ひ合はせてあるべき事なり。
(平成新編0105・御書全集0411・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0215~0216・昭和定本[3]2032)
[正嘉02(1258)年(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]