二には月氏の外道、三目八臂(はっぴ)の摩醯首羅天(まけいしゅらてん)・毘紐天(びちゅうてん)、此の二天をば一切衆生の慈父悲母、又天尊主君と号す。迦毘羅(かびら)・■[=清-青+區]楼僧■[=伝-云+去](うるそうぎゃ)・勒娑婆(ろくしゃば)、此の三人をば三仙となづく。此等は仏前八百年、已前已後の仙人なり。此の三仙の所説を四韋陀(しいだ)と号す、六万蔵あり。乃至仏出世に当たって、六師外道、此の外経を習伝して五天竺の王の師となる。支流九十五六等にもなれり。一々に流々(るる)多くして、我慢の幢(はたほこ)高きこと非想天(ひそうてん)にもすぎ、執心の心の堅きこと金石にも超えたり。其の見の深きこと巧(たく)みなるさま、儒家にはにるべくもなし。或は過去二生・三生乃至七生・八万劫を照見し、又兼ねて未来八万劫をしる。其の所説の法門の極理は、或は因中有果(うか)、或は因中無果(むか)、或は因中亦有果亦無果(やくうかやくむか)等云云。此(これ)外道の極理なり。所謂(いわゆる)善き外道は五戒・十善戒等を持(たも)ちて、有漏(うろ)の禅定(ぜんじょう)を修し、上、色(しき)・無色(むしき)をきわめ、上界を涅槃(ねはん)と立て屈歩虫(くっぷちゅう)のごとくせめのぼれども、非想天より返って三悪道に堕(お)つ。一人として天に留(とど)まるものなし。而(しか)れども天を極(きわ)むる者は永くかへらずとをも(思)えり。各々自師の義をうけて堅く執するゆへに、或は冬寒に一日三度恒河(ごうが)に浴し、或は髪をぬき、或は巌(いわお)に身をなげ、或は身を火にあぶり、或は五処をやく、或は裸形(あかはだか)、或は馬を多く殺せば福をう(得)、或は草木をやき、或は一切の木を礼す。此等の邪義其の数をしらず。師を恭敬(くぎょう)する事(こと)諸天の帝釈をうやまい、諸臣の皇帝を拝するがごとし。しかれども外道の法九十五種、善悪につけて一人も生死をはなれず。善師につかへては二生三生等に悪道に堕ち、悪師につかへては順次生に悪道に堕つ。外道の所詮は内道に入(い)る即ち最要なり。或外道云はく「千年已後仏出世す」等云云。或外道云はく「百年已後仏出世す」等云云。大涅槃経に云はく「一切世間の外道の経書は皆是(これ)仏説にして外道の説に非ず」等云云。法華経に云はく「衆に三毒有りと示し又邪見の相を現ず、我が弟子是(か)くの如く方便して衆生を度す」等云云。
(平成新編0525~0526・御書全集0187~0188・正宗聖典0074~0076・昭和新定[1]0758~0760・昭和定本[1]0537~0538)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]