御状給はり候ひ畢(おわ)んぬ。親疎(しんそ)と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ。御本尊図して進(まい)らせ候。此の法華経は仏の在世よりも仏の滅後、正法よりも像法、像法よりも末法の初めには次第に怨敵(おんてき)強くなるべき由をだにも御心へ(得)あるならば、日本国に是より外に法華経の行者なし。これを皆人存じ候ひぬべし。道善御房の御死去の由、去(い)ぬる月粗(ほぼ)承り候。自身早々と参上し、此の御房をもやがてつか(遣)はすべきにて候ひしが、自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世(とんせい)のやうに見えて候へば、なにとなく此の山を出(い)でず候。此の御房は、又内々人の申し候ひしは、宗論やあらんずらんと申せしゆへに、十方にわ(分)かて経論等を尋ねしゆへに、国々の寺々へ人をあまたつか(遣)はして候に、此の御房はするが(駿河)の国へつか(遣)はして当時こそ来たりて候へ。又此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ、詮なからん人々にき(聞)かせなばあ(悪)しかりぬべく候。又設(たと)ひさなくとも、あまたになり候はゞほかざま(外様)にもきこえ候ひなば、御ため又このため安穏ならず候はんか。御まへ(前)と義城房と二人、此の御房をよ(読)みて(手)として、嵩(かさ)がもり(森)の頂にて二・三遍、又故(こ)道善御房の御はか(墓)にて一遍よませさせ給ひては、此の御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ。たびたびになり候ならば、心づ(付)かせ給ふ事候なむ。恐々謹言。
(平成新編1037~1038・御書全集0330・正宗聖典----・昭和新定[2]1545~1546・昭和定本[2]1250~1251)
[建治02(1276)年07月26日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]