第二に但(ただ)法華経の題目計(ばか)りを唱へて三悪道を離るべきことを明かさば、法華経の第五に云はく「文殊師利(もんじゅしり)、是(こ)の法華経は無量の国の中に於て乃至名字(みょうじ)をも聞くことを得べからず」と。第八に云はく「汝等(なんだち)但(ただ)能(よ)く法華の名(みな)を受持せん者を擁護(おうご)せんすら福量(はか)るべからず」と。提婆品(だいばほん)に云はく「妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬(しんきょう)して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕せず」と。大般涅槃(だいはつねはん)経名字功徳品に云はく「若(も)し善男子・善女人有って是(こ)の経の名を聞いて悪趣(あくしゅ)に生ずといふは是の処(ことわり)有ること無けん」と "涅槃経は法華経の流通たるが故に之(これ)を引く"。 問うて云はく、但法華経の題目を聞くと雖(いえど)も解心(げしん)無くば如何(いか)にして三悪趣を脱(のが)れんや。答へて云はく、法華経流布の国に生まれて此の経の題目を聞き、信を生ずるは宿善(しゅくぜん)の深厚(じんこう)なるに依れり。設(たと)ひ今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なり。故に悪道に堕せず。問うて云はく、過去の宿善とは如何(いかん)。答へて曰く、法華経の第二に云はく「若(も)し此(こ)の経法を信受すること有らん者は是(こ)の人は已(すで)に曾(かつ)て過去の仏を見奉り恭敬(くぎょう)し供養し亦是の法を聞けるなり」と。法師品(ほっしほん)に云はく「又如来滅度の後、若し人有って妙法華経の乃至一偈(いちげ)一句を聞いて一念も随喜せん者は、乃至当(まさ)に知るべし、是の諸人等已に曾て十万億の仏を供養せしなり」と。流通たる涅槃経に云はく「若し衆生有って煕連河沙(きれんがしゃ)等の諸仏に於て菩提心を発(お)こし、乃(すなわ)ち能(よ)く是(こ)の悪世に於て是(か)くの如き経典を受持して誹謗を生ぜず。善男子、若し能く一恒河沙(ごうがしゃ)等の諸仏世尊に於て菩提心を発こすこと有って、然して後に乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗(ぼう)ぜず是の典を愛敬(あいぎょう)せん」已上経文。此等(これら)の文の如くんば、設(たと)ひ先に解心(げしん)無くとも此の法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生(しょしょう)なり。夫(それ)三悪の生を受くること大地微塵(みじん)より多く、人間の生を受くること爪上(そうじょう)の土より少なし。乃至四十余年の諸経に値(あ)ふは大地微塵より多く、法華・涅槃に値ふことは爪上の土より少なし。上に挙ぐる所の涅槃経の三十三の文を見るべし。設ひ一字一句なりと雖も此の経を信ずるは宿縁多幸(しゅくえんたこう)なり。
問うて云はく、設ひ法華経を信ずと雖も悪縁に随はゞ何ぞ三悪道に堕せざらんや。答へて曰く、解心無き者権教の悪知識に遇(あ)ひて実教を退せば、悪師を信ずる失(とが)に依って必ず三悪道に堕すべきなり。彼の不軽(ふきょう)軽毀(きょうき)の衆は権人(ごんにん)なり。大通(だいつう)結縁(けちえん)の者の三千塵点(じんでん)を歴(へ)しは法華経を退して権教に遷(うつ)りしが故なり。法華経を信ずるの輩法華経の信を捨てゝ権人に随はんより外(ほか)は、世間の悪業に於ては法華の功徳に及ばず。故に三悪道に堕すべからざるなり。
(平成新編0153~0154・御書全集0070~0071・正宗聖典ーーーー・昭和新定[1]0272~0273・昭和定本[1]0127~0128)
[正元01(1259)年(佐前)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]