大闇(おおやみ)をば日輪やぶる。女人の心は大闇のごとし、法華経は日輪のごとし。幼子(おさなご)は母をしらず、母は幼子をわすれず。釈迦仏は母のごとし、女人は幼子のごとし。二人たがひに思へばすべてはなれず。一人は思へども、一人思はざればあるとき(或時)はあひ、あるとき(或時)はあわず。仏はをも(思)ふものゝごとし、女人はをも(思)はざるものゝごとし。我等仏をおもはゞいかでか釈迦仏見え給はざるべき。石を珠といへども珠とならず、珠を石といへども石とならず。権経の当世の念仏等は石のごとし。念仏は法華経ぞと申すとも法華経等にあらず。又法華経をそしるとも、珠の石とならざるがごとし。
昔、唐国(もろこし)に徽宗(きそう)皇帝と申せし悪王あり。道士と申すものにすか(欺)されて、仏像経巻をうしなひ、僧尼(そうに)を皆還俗(げんぞく)せしめしに、一人として還俗せざるものなかりき。其の中に法道三蔵と申せし人こそ、勅宣をおそれずして面(かお)にかなやき(火印)をやかれて、江南(こうなん)と申せし処へ流されて候ひしが、今の世の禅宗と申す道士の法門のようなる悪法を御信用ある世に生まれて、日蓮が大難に値(あ)ふことは法道に似たり。
おのおのわずかの御身と生まれて、鎌倉にゐながら人目もはゞからず、命をもおしまず、法華経を御信用ある事、たゞ事ともおぼえず。但(ただ)おしはかるに、濁(にご)れる水に玉を入れぬれば水のす(清)むがごとし。しらざる事をよき人におしえられて、其のまゝに信用せば道理にきこゆるがごとし。釈迦仏・普賢(ふげん)菩薩・薬王菩薩・宿王華(しゅくおうけ)菩薩等の各々の御心中に入り給(たま)へるか。法華経の文に閻浮提(えんぶだい)に此の経を信ぜん人は普賢菩薩の御力なりと申す是なるべし。
女人はたとへば藤のごとし、をとこは松のごとし。須臾(しゅゆ)もはな(離)れぬれば立ちあがる事なし。然(しか)るにはかばかしき下人もなきに、かゝる乱れたる世に此のとの(殿)をつかはされたる心ざし、大地よりもあつし、地神定(さだ)んでしりぬらん。虚空よりもたかし、梵天帝釈もしらせ給ひぬらん。
人の身には同生同名と申す二(ふたり)のつか(使)ひを、天生まるゝ時よりつけさせ給ひて、影の身にしたがふがごとく須臾(しゅゆ)もはなれず、大罪・小罪・大功徳・小功徳すこしもおとさず、遥々(はるばる)天にのぼ(上)て申し候と仏説き給ふ。
此の事は、はや天もしろしめしぬらん。たのもし、たのもし。
此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候。
(平成新編0595~0596・御書全集1114~1115・正宗聖典----・昭和新定[1]0857~0859・昭和定本[1]0632~0634)
[文永09(1272)年04月(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]