されば末代の愚人(ぐにん)の恐るべき事は、刀杖(とうじょう)・虎狼(ころう)・十悪・五逆等よりも、三衣一鉢を帯せる暗禅の比丘と並びに権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等なり。故に涅槃経二十二に云はく「悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏(ふい)の心を生ぜよ。何を以ての故に、是の悪象等は唯(ただ)能(よ)く身を壊(やぶ)りて心を壊ること能(あた)はず。悪知識は二倶(とも)に壊るが故に。乃至悪象の為に殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」文。此の文の心を章安大師宣(の)べて云はく「諸の悪象等は但是(ただこれ)悪縁にして人に悪心を生ぜしむること能(あた)はず、悪知識は甘談詐媚(かんだんさび)・巧言令色(こうげんれいしょく)もて人を牽(ひ)いて悪を作(な)さしむ。悪を作(な)すを以ての故に人の善心を破(やぶ)る。之を名づけて殺と為(な)す、即ち地獄に堕(だ)す」文。文の心は、悪知識と申すは甘くかたらひ詐(いつわ)り媚(こ)び言(ことば)を巧(たく)みにして愚癡(ぐち)の人の心を取って善心を破(やぶ)るといふ事なり。総じて涅槃経の心は、十悪・五逆の者よりも謗法・闡提(せんだい)のものをおそ(恐)るべしと誡(いまし)めたり。闡提の人と申すは法華経・涅槃経を云ひうとむる者と見えたり。当世の念仏者等法華経を知り極めたる由をいふに、因縁(いんねん)譬喩(ひゆ)をもて釈し、よくよく知る由を人にしられて、然して後には此の経のいみじき故に末代の機のおろかなる者及ばざる由をのべ、強き弓重き鎧(よろい)、かひなき人の用にたゝざる由を申せば、無智の道俗さもと思ひて実には叶ふまじき権教に心を移して、僅(わず)かに法華経に結縁しぬるをも飜(ひるがえ)し、又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に、師弟倶(とも)に謗法の者となる。之に依(よ)って謗法の衆生国中に充満して、適(たまたま)仏事をいとなみ、法華経を供養し、追善を修するにも、念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来たって、法華経は末代の機に叶ひ難き由を示す。故に施主も其の説を実と信じてある間、訪(とぶ)らはるゝ過去の父母・夫婦・兄弟等は弥(いよいよ)地獄の苦を増し、孝子は不孝、謗法の者となり、聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属(けんぞく)となる。日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず。適(たまたま)仏法を知る智者は、国の人に捨てられ、守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ、利生(りしょう)を止(や)め、此の国をすて他方に去り給ひ、悪鬼は便(たよ)りを得て国中に入り替はり、大地を動かし悪風を興(おこ)し、一天を悩まし五穀(ごこく)を損ず。故に飢渇(けかち)出来し、人の五根には鬼神入りて精気を奪ふ。是(これ)を疫病(やくびょう)と名づく。一切の諸人善心無く多分は悪道に堕(だ)することひとへに悪知識の教を信ずる故なり。仁王(にんのう)経に云はく「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別(わきま)へずして此の語を信聴し、横(よこしま)に法制を作りて仏戒に依(よ)らず、是(これ)を破仏・破国の因縁と為(な)す」文。文の心は末法の諸の悪比丘、国王・大臣の御前にして、国を安穏ならしむる様にして終(つい)に国を損じ、仏法を弘むる様にして還って仏法を失ふべし。国王・大臣此の由を深く知(し)ろし食(め)さずして此の言(ことば)を信受する故に、国を破り仏教を失ふと云ふ文なり。此の時日月度を失ひ、時節もたがひて、夏はさむく、冬はあたゝかに、秋は悪風吹き、赤き日月出で、望朔(ぼうさく)にあらずして日月蝕し、或は二つ三つ等の日出来せん。大火・大風・彗星等をこり、飢饉(ききん)・疫病(やくびょう)等あらんと見えたり。国を損じ人を悪道におとす者は悪知識に過ぎたる事なきか。
(平成新編0223~0225・御書全集0007~0008・正宗聖典0312~0314・昭和新定[1]0351~0354・昭和定本[1]0194~0196)
[文応01(1260)年05月28日(佐前)]
[古写本・日興筆 神奈川由井氏]
[※sasameyuki※]