但在世は四十余年をすてゝ法華経につき候ものもやありけん。仏滅後に此の経文を開見して信受せんことかたかるべし。先づ一には、爾前の経々は多言なり、法華経は一言なり。爾前の経々は多経なり、此の経は一経なり。彼々の経々は多年なり、此の経は八年なり。仏は大妄語の人、永く信ずべからず。不信の上に信を立てば、爾前の経々は信ずる事もありなん。法華経は永く信ずべからず。当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり。
日蓮云はく、日本に仏法わたりてすでに七百余年、但(ただ)伝教大師一人計り法華経をよめりと申すをば、諸人これを用ひず。但し法華経に云はく「若し須弥(しゅみ)を接(と)って他方の無数の仏土に擲(な)げ置かんも、亦未だ難(かた)しと為(せ)ず。乃至若し仏の滅後に、悪世の中に於て能く此の経を説かん、是則ち難しとす」等云云。日蓮が強義経文には普合(ふごう)せり。法華経の流通たる涅槃経に、末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし。正法の者は爪上(そうじょう)の土のごとしととかれて候は、いかんがし候べき。日本の諸人は爪上の土か、日蓮は十方の土か、よくよく思惟(しゆい)あるべし。賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人の世に法華経の実義顕はるべし等と心うべし。此の法門は迹門と爾前と相対して、爾前の強きやうにをぼゆ。もし爾前つよ(強)るならば、舎利弗等の諸の二乗は永(よう)不成仏の者なるべし。いかんがなげかせ給ふらん。
(平成新編0533~0534・御書全集0195~0196・正宗聖典0085~0086・昭和新定[1]0771~0772・昭和定本[1]0549~0550)
[文永09(1272)年02月(佐後)]
[真跡・身延曾存]
[※sasameyuki※]