問ふ、諸経論の意は等覚已前の四十位に尚受職の義無し。今何ぞ住前未証(じゅうぜんみしょう)の位に於て、受職の義を明かすや。答ふ、天台六即を立て円人の次位(じい)を判ず。尚是(これ)円教の教門にして証道の実義に非ず。何(いか)に況んや五十二位別教の権門に附するの廃立なるをや。若し法華の実意に約して探って之を言はゞ与奪(よだつ)の二義有り。謂はく、与の義とは、一位に皆五十一位を具し、互具相即(そうそく)して且(しばら)くも欠減(けつげん)無し。設(も)し此の辺に約せば五即・五十一位に受職潅頂(かんじょう)の義有るべし。又奪(だつ)の辺とは、六即・五十二位は権実二教の教門に附す。故に未断煩悩の凡夫も妙法を信受するの時、妙覚の職位を成ず。豈(あに)此の人に於て受職の義無からんや。経に云はく「我が滅度の後に於て、応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑ひ有ること無けん」と。又云はく「須臾(しゅゆ)も之を聞かば即ち阿耨菩提(あのくぼだい)を究竟(くきょう)することを得ん」文。「仏道究竟」とは是妙覚の果位なり。但し天台等の釈に分証(ぶんしょう)の究竟と釈し給ふは、一位に諸位を具するの時、一位に皆分証・究竟の二益有り。此の辺に約して解釈(げしゃく)せば分証・究竟に亘(わた)ると判じ給へり云云。
今経の受職潅頂の人に於て二人あり。一には道(どう)、二には俗なり。道に於て復(また)二あり。一には正しき修学解了(しゅがくげりょう)の受職、二には只信行の受職なり。俗に於ても又二あり。道に例して知んぬべし。比丘(びく)の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行(げぎょう)は信行の比丘の始信に同ず。何を以ての故に、比丘能(よ)く悪を忍べばなり。又比丘は出家の時分に受職を得(う)。俗は能く悪を忍ぶの義有りと雖も受職の義無し。故に修学解了の受職の比丘は仏位に同じ。是即ち如来の使ひなればなり。経に云はく「当に知るべし、是の人は如来と共に宿(しゅく)せん」と。又云はく「衆生を愍(あわれ)むが故に此の人間に生まれたり」と。是の故に作法の受職潅頂の比丘をば、信行の比丘と俗衆と共に礼拝を致し供養し恭敬(くぎょう)せん事、仏を敬ふが如くすべし。「若し法師に親近(しんごん)せば速(すみ)やかに菩薩の道を得ん。是の師に随順して学せば恒沙(ごうじゃ)の仏を見たてまつることを得ん」が故なり。自門尚是くの如し。何(いか)に況んや他門をや。
(平成新編0589~0590・御書全集----・正宗聖典1025・昭和新定[1]0851~0852・昭和定本[1]0626~0627)
[文永09(1272)年04月15日(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]