『当体義抄』(佐後)(秘) | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

 問ふ、一切衆生皆悉(ことごと)く妙法蓮華の当体ならば、我等が如き愚癡闇鈍(あんどん)の凡夫も即ち妙法の当体なりや。答ふ、当世の諸人之多しと雖も二人を出でず。謂(いわ)ゆる権教の人、実教の人なり。而して権教方便の念仏等を信ずる人をば、妙法蓮華の体と云はるべからず。実教の法華経を信ずる人は、即ち当体の蓮華、真如の妙体(みょうたい)是なり。涅槃経に云はく「一切衆生、大乗を信ずる故に大乗の衆生と名づく」文。南岳大師の四安楽行に云はく「大強精進経(だいごうしょうじんぎょう)に云はく、衆生と如来と同共一法身(どうぐいちほっしん)にして清浄妙無比(しょうじょうみょうむひ)なるを妙法華経と称す」文。又云はく「法華経を修行するは此の一心一学に衆果(しゅか)普(あまね)く備はり、一時に具足して次第入(しだいにゅう)に非ず。亦蓮華の一華(け)に衆果を一時に具足するが如し。是を一乗の衆生の義と名づく」文。又云はく「二乗声聞及び鈍根の菩薩は、方便道の中の次第修学なり。利根の菩薩は正直に方便を捨て、次第行を修(しゅ)せず。若し法華三昧(ほっけざんまい)を証すれば衆果悉く具足す、是を一乗の衆生と名づく」文。南岳の釈の意は、次第行の三字をば、当世の学者は別教なりと料簡(りょうけん)するなり。然るに此の釈の意は、法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云ふ故に、爾前の円・爾前の諸大乗経並びに頓漸(とんぜん)大小の諸経なり。証拠は無量義経に云はく「次に方等(ほうどう)十二部経・摩訶般若(まかはんにゃ)・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫(りゃっこう)修行を宣説す」文。大強精進(だいごうしょうじん)経の同共(どうぐ)の二字に習ひ相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。不同共は念仏者等なり、仏性・法身如来に背く故に妙経の体に非ず。
 此等の文の意を案ずるに、三乗・五乗・七方便・九法界・四味・三教・一切の凡聖(ぼんしょう)等をば大乗の衆生、妙法蓮華の当体とは名づくべからず。設(たと)ひ仏なりと雖も、権教の仏には仏界の名言(みょうごん)を付くべからず。権教の三身は未だ無常を免れざる故なり。何(いか)に況んや其の余の界々の名言をや。故に正像(しょうぞう)二千年の国王大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するは此の意なり。所詮(しょせん)妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是(これ)なり。南岳釈して云はく「一切衆生、法身の蔵(ぞう)を具足して、仏と一にして異なり有ること無し。是の故に法華に云はく、父母所生の清浄の常の眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(に)、亦復(またまた)是くの如し」文。又云はく「問うて云はく、何(いず)れの経の中に眼等の諸根を説いて、名づけて如来と為(す)るや。答へて云はく、大強精進経の中に衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」文。文は他経に有りと雖も、下文(げもん)顕はれ已(お)はれば通じて引用することを得るなり。正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居(のうご)・所居(しょご)・身土(しんど)・色心、倶体倶用(くたいくゆう)の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力(じんりき)の顕はす所の功能(くのう)なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。
(平成新編0693~0694・御書全集0511~0512・正宗聖典1024・昭和新定[2]1016~1018・昭和定本[1]0758~0760)
[文永10(1273)年(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[秘・国主信心あらんの後始めて之を申すべき秘蔵の法門(『当体義抄送状』)]
[※sasameyuki※]