『就註法華経口伝(御義口伝) 下 寿量品』(佐後)[古写本] | 細雪の物置小屋

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[参考]『日蓮大聖人の「御書」をよむ 上 法門編』著者・小林正博
発行所・株式会社第三文明社
『日蓮大聖人の「御書」をよむ 下 御消息編』著者・河合 一
発行所・株式会社第三文明社

第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事
 文句の九に云はく「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり。別して本地三仏の別号なり。寿量とは詮量(せんりょう)なり。十方三世諸仏の功徳を詮量する故に如来寿量品と言ふ」と。
 御義口伝に云はく、此の品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付嘱是なり。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是なり。六即の配立(はいりゅう)の時は此の品の如来は理即の凡夫なり。頭に南無妙法蓮華経を頂戴(ちょうだい)し奉る時名字即なり。其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり。聞き奉りて修行するは観行即なり。此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり。さて惑障(わくしょう)を伏するを相似即と云ふなり。化他に出づるを分真即(ぶんしんそく)と云ふなり。無作の三身の仏なりと究竟(くきょう)したるを究竟即の仏とは云ふなり。総じて伏惑(ぶくわく)を以て寿量品の極(ごく)とせず、唯凡夫の当体本有(ほんぬ)の侭(まま)を此の品の極理と心得べきなり。無作の三身の所作は何物ぞと云ふ時、南無妙法蓮華経なり云云。
(平成新編1765~1766・御書全集0752・正宗聖典0454~0455、1007・昭和新定[3]2802~2803・昭和定本[3]2662~2663)
[弘安01(1278)年01月01日(佐後)]
[古写本・上 富士大石寺、下 京都要法寺]
[※sasameyuki※]