御文(おんふみ)委しく披見いたし候ひ畢んぬ。抑(そもそも)宝塔の御供養の物、銭一貫文・白米・しなじな(品品)をく(贈)り物、たしかにうけとり候ひ畢んぬ。此の趣(おもむ)き御本尊法華経にもねんごろに申し上げ候。御心やすくおぼしめし候へ。
一、御文に云はく「多宝如来涌現(ゆげん)の宝塔何事を表はし給ふや」云云。此の法門ゆゝしき大事なり。宝塔をことわるに、天台大師文句の八に釈し給ひし時、証前・起後の二重の宝塔あり。証前は迹門、起後は本門なり。或は又閉塔は迹門、開塔は本門、是即ち境智の二法なり。しげ(繁)きゆへにこれをを(置)く。所詮三周の声聞法華経に来たりて己心の宝塔を見ると云ふ事なり。今日蓮が弟子檀那又かくのごとし。末法に入って法華経を持つ男女(なんにょ)のすがたより外には宝塔なきなり。若し然れば貴賎上下をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我が身宝塔にして、我が身多宝如来なり。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益(むやく)なり。聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぽう)を以てかざりたる宝塔なり。多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。我が身又三身即一の本覚(ほんがく)の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ。こゝさながら宝塔の住処なり。経に云はく「法華経を説くこと有らん処は、我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり。
あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり。阿仏房しかしながら北国の導師とも申しつべし。浄行菩薩はうまれかわり給ひてや日蓮を御とぶら(訪)ひ給ふか。不思議なり不思議なり。此の御志をば日蓮はしらず上行菩薩の御出現の力にまか(委)せたてまつ(奉)り候ぞ。別の故はあるべからず、あるべからず。宝塔をば夫婦ひそかにをがませ給へ。委しくは又々申すべく候。恐々謹言。
(平成新編0792~0793・御書全集1304~1305・正宗聖典1025・昭和新定[1]0833~0835・昭和定本[2]1144~1145)
[文永12(1275)年03月13日"文永09(1272)03月13日""建治02(1276)年03月13日"(佐後)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]