今常忍貴辺(きへん)は末代の愚者にして見思未断(けんじみだん)の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず禿居士(とくこじ)。心は善に非ず悪に非ず羝羊(ていよう)のみ。然りと雖も一人の悲母(ひも)、堂に有り。朝(あした)に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返る。営む所は悲母の為、存する所は孝心のみ。而るに去月下旬の比(ころ)、生死の理(ことわり)を示さんが為に黄泉の道に趣(おもむ)く。此に貴辺と歎いて云はく、齢(よわい)既に九旬に及ぶ。子を留めて親の去ること次第たりと雖も、倩(つらつら)事の心を案ずるに、去りて後は来たるべからず、何れの月日をか期(ご)せん。二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉(ききん)して山野に盗賊充満し、宿々糧米乏少(しゅくしゅくろうまいぼうしょう)なり。我が身羸弱(るいじゃく)にして所従亡きが若(ごと)く牛馬合期(ごめごうご)せず。峨々(がが)たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭(こうべ)天に■(=打-丁+卒)(う)ち、幽谷(ゆうこく)に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼眩(くるめ)き足冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺(そうれい)、役(えん)の優婆塞(うばそく)が大峰も只今なりと云云。
然る後深洞(しんどう)に尋ね入りて一菴室を見るに、法華読誦(どくじゅ)の音(こえ)青天に響き、一乗談義の言山中に聞こゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ、合掌して両眼を開き、尊容を拝するに歓喜身に余り、心の苦しみ忽(たちま)ちに息(や)む。我が頭(こうべ)は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯(じょうぼん)・摩耶(まや)の得道、吉占師子(きっせんしし)・青提女(しょうだいにょ)・目■(=牧-攵+建)尊者(もっけんそんじゃ)は同時の成仏なり。是くの如く観ずる時無始(むし)の業障(ごうしょう)忽ちに消え、心性(しんしょう)の妙蓮忽ちに開き給ふか。然る後、随分に仏事を為(な)し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。
(平成新編0957~0958・御書全集0977~0978・正宗聖典----・昭和新定[2]1439~1440・昭和定本[2]1150~1151)
[建治02(1276)年03月30日"建治02(1276)年03月""建治02(1276)年"(佐後)]
[真跡・中山法華経寺(100%現存)、古写本・信伝筆"日澄筆" 北山本門寺]
[※sasameyuki※]