経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く。何故にかやうには説かるゝやと存ずるに、只人をはゞからず経文のまゝに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有りて命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり。涅槃経第三に云はく「若し善比丘あって法を壊らん者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし是の人は仏法中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子真の声聞なり」と。此の文の意は仏の正法を弘めん者、経教の義を悪しく説かんを聞き見ながら我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば、仏法中の敵なり。若し経文の如くに、人をもはゞからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば仏法中怨の責めを免れんとて、かやうに諸人に悪まるれども命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ。是を以て章安大師云はく「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さゞれとは、身は軽く法は重し身を死して法を弘めよ」と。此の文の意は身命をばほろぼすとも正法をかくさゞれ、其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。悲しいかな生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり。悲想の八万歳未だ無常を免れず。■(=恒-亘+刀)利の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間閻浮の習ひは露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。歓喜仏の末の世の覚徳比丘正法を弘めしに、無量の破戒の此の行者を怨みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿■(=閃+从)仏の国に生まれて彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙与国王は不退の位に登る。憑しいかな、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人、かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は、謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。南岳大師の四安楽行に云はく「若し菩薩有りて悪人を将護し治罰すること能はず。乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と。此の文の意は若し仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず、詐って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云ふ文なり。今真言・念仏・禅・律の謗人をたゞさず、いつはて慈悲を現ずる人此の文の如くなるべし。
(平成新編0404~0405・御書全集0496~0497・正宗聖典----・昭和新定[1]0614~0616・昭和定本[1]0384~0385)
["文永05(1268)年""文永02(1265)年"(佐前)]
[真跡、古写本・無]
[※sasameyuki※]