鎌倉時代末期〜室町時代初期というのは、南北朝の動乱により皇位継承が大変乱れた時期です。

この時期は伝統の破壊されやすい時期でもあります。

 

例えば天皇の皇女が代々伊勢神宮の斎宮を務めた歴史が終焉したのは、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱によります。

wiki 斎宮

 

さて「皇親の範囲は天皇四世以内」と明確に大宝令に定義されている(皇位継承官邸資料 1-3)、

いわば皇位継承権の定義たる世数限定の理念(直系主義に基づく傍系の範囲の制限)は、

世襲親王家=旧宮家の成立によって破壊されました。

 

世襲親王家は天皇から何世離れようと、代々その系統に皇位継承権を認める、という制度です。

 

世襲親王家は、これもまた南北朝動乱の余波の中で成立しました。

 

南北朝合一後、両統迭立という約束を、後小松天皇がその皇子称光天皇に譲位したことで破り、後南朝側は猛反発……。

 

という、グダグダの空気の中で、後継のいなかった称光天皇の次に即位したのが、後花園天皇。

北朝・崇光天皇のひ孫であり、「伏見宮系統」の天皇です。

崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとって念願叶ったりの出来事でした。

 

この後花園天皇が始めたのが、伏見宮系統を世数無視で代々親王とみなす、という、世襲親王家制度です。

 

以下、wikiより引用。

 

最初の世襲親王家とされる伏見宮も、当初は崇光天皇の子・栄仁親王を祖とする世襲宮家に過ぎず、

その子である貞成親王後小松上皇の猶子となることで54歳にして親王宣下を受けた

(ちなみに貞成の兄で先に伏見宮を継承した治仁王は親王宣下を受けていない)。

後小松上皇の系統の断絶に伴って、貞成の子である後花園天皇が皇位を継承して践祚した時に、

自動的に伏見宮の血筋が皇室に横滑りし、

弟の貞常親王も皇弟となって伏見宮というくくりを無くす選択肢もありえた。

しかし実際には、貞常親王が伏見宮を継承し、伏見宮の財産を皇室に統合することはせず、

後花園天皇は貞常親王に「永世伏見御所と称すべし」との勅許を与えた。

これが世襲親王家「伏見宮」の始まりであり、

同時に最初の世襲親王家の成立でもある。

 

さて。

室町時代、しかも南北朝動乱のグダグダの中で突然成立した世襲親王家制度、果たしてこれは「守るべき伝統」と言えましょうか?

 

なお、世襲親王家成立により、システムとしては世数限定の理念は破壊されましたが、

その後も傍系は天皇のひ孫どまりで継承され、世数限定の理念は結果的にはしっかりと守られています。

 

私は思う。

 

旧宮家の臣籍降下は、世襲親王家成立以前の伝統への回帰であり、正しい修正である

 

と。