明日付けで私はお休みに入ります。治療生活の開始ともいいます(1週間くらいはのんびりしようと思っているけど。)。

 最後の日は怒涛のように過ぎ去っていきました。

 子供たちは私が転勤するんじゃないかと思っていたので、一時間目にある修了式と離任式では大人しく並びつつ(次年度受け持ちが仮決定している担任達が様子を見ていると、私のクラスはやはりお利口なイメージそのものだったようです)、一部の子達は私の方を見ながら不安そうに両手を摩って拝んでいました。

 そうして離任式の壇上に上がらなかったので、私のことスキーな子達が満面の笑みで今度は両手を組んで喜んでいました。この後すぐにどん底に突き落とすんですけどね・・・。

 私と仲が良かったというか、めちゃくちゃ面倒を見てきた後輩のダンスィも転勤時期だったので、離任式の際は一番驚きの声が上がっていました。ポンコツだったあの子が、今やこんなに人気者になっちゃって・・・と感慨深くもなりました。ダンスィと同期の子達から連盟でプレゼントをいただきましたが、その際には「当時は毎週のように飲みに行っていましたね」と言われました。そんな頻度だったかと思いました。ダンスィは同期の子と婚約までちゃっかりしており、「式を挙げる時は、良ければ呼んでね〜」とてきとーに言っておきました。呼んでくれてもくれなくてもいいんですけど、「遊びに行かせてもらいます!(以前、猫の世話のアルバイトを頼んだことがある。)」とフィアンセから言われました。ある意味交友関係がなくなるので、お世辞でも嬉しかったですね。同じ休職仲間の方によると、「現場から遠ざかると、不安になる。現場の雰囲気とか起きてることとか、色々ラインで流してもらえるといいと思う。」とのことだったので、色々な人に「愚痴でもなんでもいいので教えてください〜」とお願いしときました。

 そして式典が終わったら学年集会があるのですが、その際に転退職者のプリントを配付しました。で、そこに私の名前が載ってるわけなんですよね。療養休暇って名目で。

 子供達はそれを読んで、「えっ? 療養休暇て何?」と困惑して、タブレットのインターネットで調べ始めていたので、「よーするに、先生は病気を治すために暫くお休みしますよってことだよー。」と言うと、えええー!! と悲鳴? が上がっていました。思った通りの反応をありがとうでした。

 今受け持ちの学年は持ち上がりだったもので、けっこう色々な子達に反応されました。学年集会はリモートで行ったのですが、「このプリントを配付されたクラス、まだのクラスもいると思いますが、私は次年度から暫くお休みさせてもらいます。前のクラスの子達や今のクラスの子達はよく知っていると思いますが、私は病気があって、思うように働くことができていませんでした。みんなと一緒に遊んだり、早退せずに沢山の時間を過ごしたいと思ったので、ちゃんと時間をかけて治すことにしました。本当は昨年の11月には、お医者さんから『もう休まないとダメです。』って言われてましたが(ええー!!とクラスの子が叫んだので、うるさい!!といつものテンションで返しました。)、どうしてもみんなと今日、この日を迎えたいと思い、ワガママを貫かせてもらいました。学年で印象的だったのは運動会です。とても暑い中ではありましたが、私は運動会でみんなががんばって、成長する姿を見るのがとても好きで、いつも感動していました。感動させてくれてありがとうございました。」

 てな感じのことを集会で話しました。

 そして、学級の子供達に対しては、「集会で言った通り、先生は明日からいなくなります。途中、お医者さんから『もうダメです。』と言われることもありました。なんなら、入院すべきと言われたこともありました。それでも、今日まで頑張ったのは、みんながすごく良い子達で、今まで何クラスと受け持ってきたけれど、これほどまでに人のことを考えて行動できる子達になったクラスが初めてだったからです。だからこそ、そんな君たちには感謝しています。本当なら、一緒に鬼ごっこしたりドッジボールしたり縄跳びしたり鉄棒したり、そういうこともしたかったです。でも、調子が悪くて、授業中に立っているのが辛くて座ったまま授業することもあって、そういうところで申し訳ないなと思っていました。でも、皆さんは、そういうことを感じさせないようなサポートをしてくれていました。重たいワゴンを運ぶときには、慌てて誰かがやってきて一緒に運んでくれました。私が気が付かないところに気が付いて、「先生、◯◯はいいんですか?」と教えてくれました。お手伝いも率先してやってくれました。高いところの作業も一生懸命にしてくれました。私が「こうした方がいいんだよ。」と言ったことを、私のことを信じて、すぐに学級のルールとして反映してくれていました。数え切れないくらい、皆さんには助けられました。」

 と、感謝の意を述べるまでは良かったのですが、

「でも、これからの成長する君たちを見ることができません。本当なら、6年生まで一緒にいたかったです。私なりに一生懸命に育てた君たちが違う担任の先生の下で育っていくことが、正直悔しいです。それぐらい、君たちは私にとって惜しい存在になりました。でも、そういう風に成長してくれてありがとうございました。」

 と、本音をポロリしたら、涙もポロリしてしまい、色々な子達が一緒に泣いてくれました。私の淡々とした長話を、いつもなら誰かがツッコミを入れたりするのに、シーンとなって聞いてくれて嬉しかったです。子供達からは、「6年生になるまでに、ぜったい帰ってきてくださいね!」と言われました。

 そうして最後は「一年間、ありがとうございました!」『ありがとうございました!!』と声を揃えて言ってくれました。

 私は10年以上教員をやってきていましたけれど、6年生を受け持った時でも、最後の日に泣くことはなかったです。それぐらい「このクラス、また持ちたい〜〜!!!」と思わせられる、そんなクラスに成長したことが嬉しい反面、惜しくてたまりませんでした。

 ここで意外だったのは、いつも宿題出せよ!!と叱っていたとある子(過去の記事でも登場している)が、顔を真っ赤にして泣いていたことですね。(ちなみに放課後、用事があって保護者に電話した際も「いま泣いてますね〜。「先生はやさしかった!」ってしきりに言っています。」と保護者の方から言われました。なんで???)男女問わず半数が泣いていて、泣いていない子も、帰り際に「良ければ先生と握手してから帰ってください。ハグしたいという子は、両手を広げてください。(セクハラ云々あるからこういう時以外は基本的に体育の補助でくらいしかスキンシップしない。腕相撲くらいはするけど。)と言えば、殆どの女子はハグしてくれて、一部の男子はこだわりのある手つきで握手したり、ぶんぶん振り回してきたり、恥ずかしいから隙を見て・・・というタイミングでやってきてハグってくる男子がいたりと様々でした。ちょっと困ったのは、下校時刻をかなり過ぎてしまっているのに、なかなか教室を出て行ってくれなかったこと。何度も戻ってきてはハグしてきたりとで、「みんな、みて、他のクラス。もう誰もおらんて! やばいて!」と言うも、「自分が最後になりたい!」と、なかなか譲らずで、うれしい悲鳴が上がりました。

 一番最後になったのは、いったん昇降口まで行って、忘れ物したフリをして戻ってきた女の子でした。よく友達関係で相談に乗っていた子でした。

 そして先週、「楽しみにしてて!」としきりに言っていたダンスィがいましたが、彼からは中々のしっかりとしたお手紙をいただきました。嬉しかったので記載しようと思います。

『二年間ありがとうございました。
色々な場面での礼儀作法を教えてもらいました。
「(私が揃えた人気の学級文庫。三万以上金かかっている。)を読み、本の面白さを知ることができました。
自分でも面白い本を見つけ、たくさんの本を家で読みました。
野菜が嫌いなぼくを二年間見守ってくれてありがとうございました。
声が低く(ホルモン異常で電話口だと男性と間違えられるくらい低い)こわそうな先生だと思っていましたが、二年間同じクラスですごすうちに、とてもやさしい先生だとわかりましたか。
ぼくやクラスのみんなのためにひっしになっているすがたを見て、ぼくは先生のようなおとなになれるようにがんばろうと思います。』

 あとは私の好きなキャラクターの絵が描かれていました。

 やっぱり手紙をもらえると嬉しいですね。しかも、具体的なエピソードが盛り込まれていると。

 私は国語専攻していた端くれなので、作文や手紙を書かせる際には「タイトルはおもしろくするんだ。行事の名前をそのまま使うの禁止ー。」「書き出しはセリフとかがインパクトがあってよし。」「お礼文を書く時は、ただありがとうございますではなくて、〜をしてくれてありがとうございます。って具体的なしてもらったことを書きましょう。」とか、色々と指導していたので、しっかりその精神を受け継いでくれていて、それも嬉しかったです。この子、いつもテキトーな文しか書かないものでしたから。

 とまあ、クラスではそんな感じで、感動的におわりましたけれど、心残りとしては、先週演奏した曲を子供たちと歌いたかったですね。なにせ、時間がなかったものですから、実現はできませんでした。

 午後は入れ替わり立ち替わりと、色々な先生方からお別れ?の品をいただきつつ、教室に残されていたものを片付けたり、次年度のクラス編成の見直し(仮担任が決定したので、各先生に見合うような内容に変更)をしたり、引き継ぎを行ったり、なんだり・・・と、やること満載で、途中で頭パンクしました。

 それでもなんとかかんとか、荷物をまとめ終え、後輩をアゴで使って車に運び入れてもらい、転退職される方々ともバイバイしてきました。

 ま、この世界は狭いですからね。またいつか同じ職場になることもあるかもしれませんね。

 とにかく、身の回りのものを片付けつつ、1週間くらいはのんびり過ごしつつ積読を消化しつつ、毎日のご飯に悩みつつ・・・(料理嫌い。出不精だから用事がないとなかなか家から出ない。)、しばしのバケーションを堪能しようと思います。

 にしても、ほんと入院措置まで宣告されていたっていうのに、やり切ったなぁ・・・。もちろん、多くの方々のおかげなのですけれど。

 休職は最長でも2年間で回復し、1年かけてリハビリ復帰というスケジュールになります。

 東京通い(治療のための今通っているところと別の病院)にどれだけ心血注げるかわかりませんが、まーやってみなわからんちゅうことで。休職での悩みや愚痴をこれからは書いていこうと思います。

 あーあのクラスで6年まで持ちたかったな!!!!