おつかれさまと言いたい人

  私と同じ学年を組んだ人たち。同じ学級の子たち。そして自分自身と旦那。


 小学校教員は学年でまとまって動き、仕事が振られることが多く、自閉症スペクトラムで協調性のない私はそれを疎ましく思うことも多く、特に今の大規模校に赴任した2年目くらいまでは低学年担任だったのもあって、女性ばかりで構成されていて、これが私に合わなかった。


 学年会で学級で起きたトラブルとか、困り事の相談とか、授業の進度の確認とか、各教科の単元でやる内容の確認やら準備やら、研究授業に関する話し合いをするのですが、ちょいちょいガールズトーク??で話が逸れに逸れる。せっかちでさっさと仕事こなしたい私はそれが鬱陶しくて、「次の議題何でしたっけ?」とぶすくれた感じで次を促す感じ。ぶっちゃけかなり子供っぽく、周りは表向き温和にしているのに、そういうところにも劣等感を抱きました。


 でも、その頃は持たされている校務分掌が上から数えて3番目(何十個とある)くらいに重いもので、その仕事にも時間を割かなくてはならないし、不妊治療を長々としていたり、お子さんがいたり、そんな状況でもマイペースに遅く出勤して早く帰る主任にぶっちゃけイライラもしていました。何せ、不妊治療+小さいお子さん持ちの方が、その関係で遅刻したり早退したり休んだりする際、朝早めに出勤している私が、自負するけれど、かーなーりフォローしていて。「こういうことして〜」という、あんまり具体的ではない内容のLINEで一日の補教計画を代わりに作成し、朝から自分のクラスとそのクラスの宿題と連絡帳のチェックをして、合同授業などをこなして、とサポートしていました。そのことについて、直接お礼を言われたりすることはほとんどなく、年賀状に「メイちゃん(私はちゃん付けされるの嫌い。下に見られている感があるので)のお陰で学級が何とかなっています。」といったような文面はもらったことあるけど、それだけ。会議のあとに「イライラしてるでしょ〜。」と茶化されることも多々あり。だから正直、苦手+嫌いな人でした。


 まあそれでも何とかやれていたのは、初任のダンスィが、これまた仕事できなさすぎてビックリするタイプだったのですが(ぼく、ADHDだと思います。と言うくらい教室環境がぐちゃぐちゃだった。)、まあ憎めないタイプで。月に1、2度はお互いに9時近く、時にはセコムの制限時間ギリギリまで仕事しつつ、帰りに飲みに行く仲になったので、それでストレス解消していました。仕事も一から教えたといっていいと思います。当時の校長にも、「ダンスィ先生の教室荒れてたぞ。チェック入れてやってくれ。」などと、そういうの初任者指導の仕事ではっていうことを頼んでくることもありました。


 転勤前の学校にいた頃から胃腸の調子が悪かったり、不眠症だったり、朝はえづき、風呂では奇声を発しと酷かったものですが、この憎めないダンスィと組んでいた頃だけは少し症状が和らいでいました。


 私はプライドが高く、責任感が強く、完璧主義でした。新しい校務分掌を待たされる度に、「何でベースがデータ化してないの!?なんで歴代の公的文書がずさんにファイリングされたままなの!?」となり、色々な分掌で基本ベースとなる資料を作成し、今でもある程度更新されつつ使いまわされ続けています。それぐらい仕事をしていました。


 そして今もプライドは高いです。それもあって、DINKSで生きていくのに、キャリアダウンするような休職という道はなかなか選べず、精神疾患が発覚して、更に広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)と診断されてからは、理解ある校長にお願いして相性の良さそうな人や男性が多めの学年で組んでもらっていましたが、段々と症状も悪化。パニック発作を起こすようになって、子供達の前ではそういった姿は見せないように心がけましたが、発作で個室でわーと発狂して自傷行為にも走っていました。発見した事務さんや職員の方に止められて落ち着かせられ、早退することも増え、昨年からは毎日のように早退するようになっていました。最低限、学級運営だけはきちんとして、私がいなくても大丈夫なクラス作りは心掛けていました。それは校長先生からも「学級運営が上手い。」と太鼓判をおされるレベルになりました。


 しかし、昨年度は「絶対に組みたくない。」と思っていた人と組んだ結果、毎日泣きながら教務(何年か組んだことのある人)に「なんであの人はああなんです? 見て見ぬふりしたくても、絶対通り過ぎる場所だから見ちゃうんです・・・黒板の前に立ってる姿一度も見たことないです。スマホいじっているか、椅子にのけ反って居眠りしているかですよ。」と滔々と愚痴を吐き出していましたが、うんざりし過ぎて何もかもどうでもよくなり、年度始まって1ヶ月で包丁で自殺未遂。四針縫いました。夫に泣きながら止められ、説教され、包丁が家から消えて、今では自殺衝動に駆られることはほとんどなくなりました。これから活力をもらっていた子供達と接する機会がなくなるので、どうなるやらですが。


 そんなんでも、休まず(熱出した時以外)に出勤することだけは自分ルールで守り、踏ん張って現場にとどまっていましたが、早退連続。私のお守りをしてくれているような、すごく気配りしてくださる定年の超ベテラン先生が様々なフォローをしてくださり、今年度は年度初めに掲示物の掲示でめまいを起こして落下し(というか、薬の副作用の注意書きで高所作業は厳禁と書いてある)たせいで病院送りになって、掲示物の掲示も剥がし作業も学年にお願いしなくてはならなくなり。


 学級の子供達は私が身体が弱いことをよく理解してくれて、剥がされた掲示物のツーダンクリップという、掲示物と掲示物を繋げるものがありますが、それを外して収納場所に入れてもらう作業をお願いする前にしておいてくれたり、私が整理整頓大事と話せば、自分たちなりに色々なところを整理整頓してくれ、驚いたのは学級文庫が本棚に丁寧にいつも収納されているのですが、本が破れた時のテープをテキトーに本棚に置いておいたら、専用の置き場を作ったり。当番活動を忘れっぽい子がいると、何も言わずに代わりにやる子が出てきたり。給食当番達が白衣に着替えている間がもったいない(せっかち精神)と、給食のワゴンを取りに行けば、重いからと力持ちの男子たちが颯爽と現れて手伝ってくれる毎日。自分の仕事以上のことをしてくれて、しかも褒められることを求めるでなく当たり前のようにやってくれていた子供達。なんか、学年の先生たちにも助けられていたし、クラスの子達にも助けられたし、旦那にも「今は最後に向けて子供達のために全力を尽くせるように、家事は最低限でいいから。(旦那も四月初めの仕事なので忙しい時期は一緒)」と言ってもらい。


 そうして、昨年、同じく休職していた方からおすすめされた病院に転院した際に、「もうすぐにでも休職しないとダメです。」「うちは寛解じゃなくて完治を目指して治療します。薬も飲まないで済む生活を目指します。」と言われたことで、こんなんじゃダメだーーー!!! 昔みたいに、無茶苦茶とまではいかないでも、普通に働けるようになりたい! と、思い直して、「分かりました。でも、年度末までちゃんとクラスの子を受け持って、次年度に送り出したいです。それまで本格的な治療を始めるのは待ってください。」とお願い? して、昔のような(酷い時はアルフォートやカントリーマアムのような腹持ちのよいお菓子を食べて夜遅くまで仕事をしていた。)無茶な働き方はしないでも、普通に働けるレベルへと回復したいと願うようになりました。


 そうして踏ん張り続けて、あと1週間弱。休職期間、社会福祉士の方との面談で生活指導してもらいつつ、運動を始めて少しずつ体力をつけ、デイケアによる発達障害の認知機能上昇と、職業訓練をして、現場復帰を目指したいと思います。


 そしてまた、今のクラスのような、良い子達に育て上げていきたいなと思っています。


 まあ、他にも転職・・・という道もあるかもしれないですが、誰かのために働くことに意義は感じているので、コミュ障ですけど、人と携わって、人を助ける仕事ではありたいと思っています。なんやかんや現場復帰だとは思いますけどね。たぶん・・・。

 

 

 

 

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