障害があるからといって、
それをすべて悲観することはない。
障害があっても自立した生活を
送っていければ良いのですから。
しかし、悲観的になってしまうのは
そのおかげで誰かの世話に
なっていかなければならないことが
多いからだと思います。
日常生活における身体的な介助から
経済などの国による支援まで。
実際、障害を受けてしまうと、
受ける前のように生活できなくなる事例は
たくさんあります。
この母親もPTさんもそう思っている
のではないか、と書きました。
母親は「子供がいじめられないだろうか」、
といった不安を抱えておられたんですよね。
子供に面倒をみてもらう、そこまでいかなくても
子供にしてやりたいことをしてやれない、
自分がいることで子供がいじめられないか、
子供の人生に足手まといにならないだろうか。
自分に置き換えても、非常に辛いだろうな、
と思わざるをえません。
ただ、母親の立場からは辛くても、
子供の立場だったら、またちがう
思いではないんだろうかと。
たとえば、どうでしょう。
子供の足手まといになるなら
いっそいなくなったほうが子供の
ためだろうか。
いなくなるというのは、
蒸発するとか死ぬとか
そういうイメージですが、
子供はそれを望むだろうか、
ということです。
私が子供だったらきっと悲しむと思います。
母親というのは、子供にとっては
たったひとりしかいない大事な存在です。
そこにいてくれる、ということだけで
もう十分なんじゃないでしょうか。
ALSの母親を長期にわたって介護した
介護者の著書『逝かない身体』を
思い出しました。
うろ覚えですが、著者である介護者の彼女は
ALSで全介助になっている母親を
「なくてはならない存在」と言っていました。
みなさんの中にも「介護がやりがいになっている」、
という人たちに出会ったことがあると思います。
はたみれば介護が大変そうに見えても
実際そう思っていない人たちっていらっしゃいます。
それどころか、いなくちゃいけない人に
なっているんです。
だから、障害があろうが、
世話を受ける存在であろうが、
それはただちにマイナスの存在に
なるわけではない。
誰かにとって「なくてはならない存在」とは
もう十分プラスの存在なわけですから、
全然悲観することなんてないと思います。
余談になるかもしれませんが、
逆に言えば、いてもいなくても
どうでもいい存在って
ものすごく辛いことなんですよね。
この世の中にひとつの縁もない
「無縁」の人たちって。
ということで、好き勝手に書いていきましたが
これをこのまま障害を受けた人に言っても
通じないってことも当然あるでしょうね。
これはあくまでも私の価値観ですので。
「こうじゃないですか?」って押しつけても
受け止められないことが多いでしょう。
だから、まず私はこの母親に相談を受けたら
「そうなんですね。どういうところが心配ですか」
みたいに聴いていくんでしょうかね。
自分は子供にとって
いつまでも、どんなときでも大切な存在、
ということを自分自身で見つけてもらうのが
次のステップになるのかな、と思います。
(おわり)
「記事、よかった!」という方、クリックを。