(前回はこちら 。)


それでは伊藤さんのところの話を紹介しましょう。



ある日、主婦をしている女性がボランティアを希望して井戸端元気にやってきました。

その女性が、ある日、認知症のあるおばあさんが靴下をはいていないのを見て、

「寒いでしょ。靴下をはきましょうね。」と声をかけたそうです。

ところが、認知症のおばあさんは「いやだ、いやだ、やめてくれ」と言ったそうです。

ボランティアさんとしばらくやりとりがありましたが、

結局、履かせられなかったらしい。



いまは、その女性はボランティアを辞めているそうです。

伊藤さんは「無理に当てはめようとしてもダメなんですね」と言いました。






…この価値観は難しいと思いました。論理的なものが好きで、

それに慣らされている私たちには難しい価値観だと思います。

だって、普通、靴下を履かせたくなるじゃないですか?そう思いませんか?

これはよっぽど感性の良い人でないと真似できない世界だと思いました。




私が真似できないと思うのは、それが感性に委ねられている世界だからです。

たとえ、自分が寒そうだと思っても、相手がそれを嫌がれば

あえて靴下を履かせない、という感性です。自分の価値観や

理屈を押しつけない、ということでしょうか。

「もしかして押しつけかもしれない」という気づき方ができる感性は

私のような凡人には難しいものだと思います。


音楽や絵画も分かる人には分かる、分からない人には分からない。

論理的なものは理屈を覚えれば分かる。

感じるのが感性だとしたら、覚えるのが論理だからです。

だから、算数は教えればどうにでもなるが、図工は教えてできるもんじゃない、

と思います。




前も話しましたが、伊藤さんのところにやってくる人たちは

他の場所では居場所がなかった人たち。


いわゆる、決まりとかルールという論理的なものには

当てはまらなかったような人たちです。


こんな人たちは、多くの場合、救われる場所がありません。

ただ、論理的なものに無理に当てはめないようにすることで

かえって生き生きする人たちもいる、ということを実証しています。

だから、伊藤さんの著書にもあるように伊藤さんのところの宅老所

「奇跡の宅老所」と呼ばれるのかな、と思いました。


あ、これは伊藤さんがおっしゃった話ではなく、伊藤さんの話を聞いた私の感想です、

あくまでも。だから伊藤さんは伊藤さんのお考えがあると思います。



結論です。


私の結論はひとつめに自立支援の介護を確立すること。

そうすれば、感性を必要としなくてもある程度の仕事はできるようになると思います。

ただ、介護という分野がどこまで専門性を確立できるか、

それほど論理的なものかどうか、という議論は置いといてください。

でも少なくとも、論理的な介護はもっと追求できるし、すべきだと思います。


ふたつめには論理的な介護が確立されていることを前提にいうと、

そのことだけに頼って考えないケアをしないこと。

自分のしていることは「自立支援」なのか、「ただの押しつけなのか」ということを

つねに振り返りながら仕事をする必要があると思います。

そして、論理的なもの、科学的なものには限界があることを

念頭に置いて、その型に無理に当てはめないようにしないこと。
「生きづらくなる」と思うからです。


さいごに、感性のいい人は論理的な介護の上に感性を生かして、

論理では限界のある部分を感性で補う。

これで論理では救えない人たちを感性で救うことができるのではないか、と思います。




「社会保障」をネタにして「自立支援」の話を終わりにします。

やっぱり着地点は違うところになってしまったような気がします。

本当はこんな終わり方じゃあなかったかも!?

違う終わり方を見つけたら、また記事にしますね。

えっ、もういいって?

じゃあ、やめときます(笑)




最後まで読んでいただき、ありがとうございますm(_ _ )m





(おわり)



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