高橋泰先生(国際医療福祉大学大学院)のお話を
もうひとつお伝えしましょう。
高齢者問題がこのように大きくなったのは、
「医療の進歩」というものがとても大きいと思います。
「人は、なかなか死ななくなった」ということです。
管などいろんな装置をつけておけば生きていられる。
ただ、そのことがむやみな延命治療につながり、
医療費の増大などの問題を招いていることは確かなようです。
高橋先生は、フランスを何度か訪問して
フランスの事情を研究しておられますが、
先生は「人の死に方はフランスと日本とは似ている」と言われました。
どのようなところが似ているか、というと、
1964年は75%が在宅で亡くなっていたが、
1994年は75%の人が入院先で亡くなっている。
病院で最期を迎える人が増えてきた、というところが似ている、というのです。
ただし、フランスの場合は亡くなる直前まで自宅で看護をして、
いよいよ最期の時に病院に入院する、というスタイルだそうです。
それと、これは日本とは違うと思うのですが、
フランスでは延命治療は行わないそうです。
正確に言えば、その昔は延命治療を推進していたが、
その反省から、今は無駄な医療はしない、という風潮になってきた、
というのです。
先生が訪問した病院のドクターは
「40歳代、50歳代では延命治療は行いますが、
高齢者には勧めない。家族、本人もそれを望まないから。」と話しました。
私の想像することですが、おそらく40~50歳代は働ける年齢、
子どもがいればまだ扶養する必要がある年齢、だからでしょうか。
高齢者は生きる必要がない、とは言いませんが、
命をつないでいく意味、というか、
その必要性が若い人より少ないからではないでしょうか。
また、このドクターは「フランスでは死生観が変わった。北欧の死生観に近づいた」
と言われたそうです。
そして「日本でも死生観は変わる」と。
その理由は「患者自身が医療を選ぶようになるから」ということです。
はたしてそうなっていくでしょうか。
ここからは私の想像することです。
これから団塊の世代が高齢者の仲間入りをしてきます。
団塊の世代、といえば戦後教育を受けた世代。
戦前、戦中の世代にはなかったであろう、
自由、平等などの個人の権利意識が十分に備わった世代たちです。
その団塊の世代が、自分が死ぬときも
「どのような最期を迎えるか」決めるであろう、ということです。
しかし、日本には、宗教などから育まれた家族観があります。
延命を望むのは多くが家族や親類です。
本人の意思が確認できなくなった場合、やはり家族の同意を得る、
というのが日本のやり方です。
それとも、意思あるうちに自分の最期の身の振り方を明らかにしておくほど、
日本人は死に対しての構えが身につくでしょうか。
(「死」について以前、記事を書きました。興味のある方は「臓器移植と命 」、「臓器移植 死ぬことの理解 」 をどうぞ。)
どうなるでしょう。10年先、20年先か。
そう遠くない将来には答えが出ます。
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