この前、グループホームの経営者の方とお話しする機会がありました。
グループホームの名前を「さくらグループホーム」としておきましょう。
さくらグループホームで、あるおばあさんを看取りしたそうです。
そして、そのおばあさんの葬式に行ったとき、
親族代表で、その家の長男が弔辞を述べました。
「さくらグループホームのスタッフの方々には大変お世話になりました。」という出だしから、しばらく「さくらさん」への感謝の言葉が続きました。
それを聞いた彼はショックを受けたそうです。
「取り返しのつかないことをしてしまった。」と。
彼はなぜそう思ったか…。
おばあさんは「さくらグループホーム」に入居することで家族との関係を絶ってしまい、「さくらグループホーム」がおばあさんの家族になってしまった。
そして家族は時々顔を見に来る親戚になってしまった。
関係を絶った家族は「さくらグループホーム」に、葬儀の時に「辛い介護を背負ってくれて、ありがとう。」と、感謝した。
考えすぎでしょうか。
グループホームは疑似家族といいますが、それは疑うところもない絶対的な価値観なのでしょうか。
そもそも、介護保険とは本人と家族との関係を断絶するものなのか。
そうあってはいけないはず。
「介護の文化は日本の美風である」と発言したある政治家には、このような思慮はなかったことと思いますが、本人にとっても辛い「介護される生活」を、いかに家族にストレスなく介護してもらい、家族と一緒に大切な最期の日までを過ごすか。
他人に任せた介護ではなく、家族が家族として関わった介護。
自分たちが最期を看取ってあげたのだ、という充実感の持てる介護。
亡くなってからも「煩わしい存在」で残ることなく、「大切な存在」として思い出されるように。
亡くなってからも「人の尊厳」、なのかもしれません。
この辺の哲学が私には欠けており、彼の話を聞いて、ズキュン!とやられたわけです。
今度は、その哲学を実現させる方法論を見つけ出すことが私の課題だな、と思います。