そもそもヒトの死とは何を言うのでしょうか。






社会通念上、あるいは、医学的には、三徴候説(自発呼吸停止、心停止、瞳孔散大)をもってヒトの死としています。


一般的にも心臓が止まれば「死んだこと」になっているのではないでしょうか。


たしかにそうです。心臓が止まれば、栄養と酸素が細胞にいかなくなり、細胞が死んでしまい、ほおっておくと腐っていきます。









ところが、さっきの三徴候を医師が確認し、「ご臨終です」と宣言した時を死亡時刻とされるそのとき、体のどこかの細胞はまだ生きているかもしれない。
少しずつ細胞も死んでいき、残りひとつ、最後の細胞が死んだときが本当に亡くなった、と言えるのではないでしょうか。
ただそれを確認する作業が非常に困難なため、さっきの三徴候をもって「ヒトの死」としている、と私は解釈しています。









これは屁理屈でしょうか。









このことを考えさせてくれたのは、僧侶であり、医師である対本宗訓氏の著書「僧医として生きる」での話を読んでからです。







生命の誕生がある一点で決まるものでないことと同じく、ヒトの死も社会通念上でそうしている、というだけのことであって、細胞レベルで考える、となると「死ぬ前」と「死んだ後」は決められないものなのだと私は思うのです。


(続く。)