あーあ。

私は英検の単語帳をテーブルに置くと、その上に突っぷした。

ぜんっぜんアタマに入って来ないし、何か上半身全体が倦怠感に襲われて、単語帳を支えるのもキツくなってきた。


翻訳・通訳の仕事を離れてもう4年になる。私の下積み期間は28年にもおよんだ。我慢が長すぎて、憧れが強すぎて、私は頑張りすぎた。そう、せっかく掴んだ夢を私はたった3年で手放してしまったのだった。


もう、英語なんかいいや。投げやりになった私は事務職に就いたり、組み立てワークにいそしんだりして迷走を始めた。挙げ句の果てどハマりしたK-POPは10代の子達に混じってレッスンを受け、いつか推しに会えるかも?とハングルを始めるまでになった。


だけど…せっかくフレーズを覚えてもアタマの上をかすめていくような虚しさが広がり、結局続かない。気づくとNHKテキストの後ろのほうにある、英語番組の情報ばかり眺めている自分がいた。


ある日ふと気づいた。K-POPは大好きだ。ハングルも大好きだ。だけど…私にはもっとやりたい事があるんじゃないか。それが、英語なんじゃないか。


認めたくなかったが、28年の下積み+現役で翻訳・通訳者だった3年と、あわせて31年間やって来て、結局中途半端だったのだ。ほんとは、てっぺん目指したかったのにがむしゃらに働きすぎて夢半ばでパンクしてしまったのだ。


無気力な凧のようになっていた私だったが、なぜか望んでもいなかったのに53才で結婚する事になった。自らがガイドを務め、愛してやまない八幡製鐵所がきっかけだった。


アンタは英語やりな。


美智子さんの声が聞こえてくる。


燃え尽きた後は数年間、全てに無関心でいつもアタマにもやがかかったようになっていたが、環境が変わり最近、少しずつ前進できるようになってきた。


やろう、英語。


別にやめる必要なんてないじゃないか。過酷な状況でも、歯を食いしばって頑張ってきた、これこそが私の強みなんじゃないだろうか。


そう思い立った私は、ハングルのテキストを全部処分した。


推しとの会話は、英語でてっぺん取ってからだ!


てっぺんがどこなのかわからないままに、私はまた、昔のように英語を再開した。


マックのテーブルから見上げる窓越しに青空がのぞいている。ぷかりと浮かんだ雲を見て、何だか笑ってしまった。あの日美智子さんが私を笑わせようと出してくれた輪っかが、ここまでつながってるみたいで。


あのテラスから今私がいるところは、距離も時間も、うんと遠くなってしまった。だけど、今眺めている空は、あの頃見た静岡の青くて広い空につながっているようで、何だか温かい気持ちが広がった。こんなふうに思えるのはきっと、年月を重ねてきたからなのだろう。


そしたらさあ、美智子さん。トシを取るのも悪くないかもね。


いつだったか、帰りの送迎バスからキレイな虹が見えたことがあった。最初に見つけたのは、いつも空を見上げている私だった。


あ、虹!見てみて、サチさん!


サチさんは眩しそうに目を細め、


うわああ、虹だあ!


とはしゃいだ。


ええ、どこどこ?


と車内にざわめきが起こり、大の大人達が席を乗り出し窓に張り付いた。その時、一言も発さず、しかし虹が消えるまでキラキラした目で見つめていた美智子さんの姿が、今も心に焼きついている。


美智子さんの夢も、かなってますように。


美智子さんがありがとうを2回言うようになったのは、いつからなのかな…ぼんやりと考えながら私は思った。


まあ、それはどうでもいいや。今も美智子さんが、大好きなかぼちゃを美味しく食べられていますように。


帰りに寄ったスーパーで、きれいなかぼちゃを見つけた。


わあ、おいしそう。


手に取ると、ずっしりと重い。


私ね、かぼちゃがだーいすきなの。


くしゃっと笑った美智子さんの顔が浮かんだ。


今日はかぼちゃの煮物でも作ろっかな。


私はそっと、かぼちゃをカゴに入れた。


                  完