〜あとがき〜

リオデジャネイロに飛行機が到着し、23時間のフライトに疲れ切った私たちはタラップに足をかけた。


何これ?暑う。

むわっと温かい湿った空気がまとわりつく。母は小4と年長の二人の子供を連れ、不安げにゲートを抜けていく。

遠藤でーす

ジャケットを着た、すらりと背の高い日本人男性が手を挙げた。

暑いでしょう。少し休みましょう。近くにいいお店があるんですよ。そこにご主人とお世話役の会社の人が来ます。


手際よく母の手荷物をタクシーのトランクに乗せ、10分後にはダイニング・バーのようなお店に案内してくれた。


いつの間にか茶色いビールびんのようなドリンクが運ばれてきて、さっと栓抜きでフタを開けると、遠藤さんは慣れた手つきで私達のグラスに注いでくれた。

これね、ガラナっていうの。おいしいから飲んでごらん。

え?ビールじゃないんですか?

大丈夫。ジュースだから。

横にちょこんと座った弟と顔を見合わせ、ひとくち飲んでみた。

うわあ、おいしい!

今まで、そんなおいしいジュースを飲んだことがなかった。シュワシュワしていて、冷たくて、甘くて、そして何だか、ピリッとした変わった感触があった。

あー、おいしかった!

弟とふたり、ほぼ同時に飲み干した。

おかわり頼もうか?

喜んだのも束の間、母が割って入った。

もう!お行儀の悪い。遠藤さん、お腹こわすので。大丈夫です、ありがとうございます。

これは。遠藤さん、お休みの日にリオまでわざわざ。

父だった。横にはニコニコ笑っている日本人の男性がいた。父が、隣のおじさんを母に紹介すると、


まあ、お世話になっております!

と母が立ち上がり、挨拶が始まったが、そのうちちょっとあちらでこの書類を…といった流れになり、立っている三人は向こうのテーブルに移動し始めた。

すみません、書類のチェックがあるので、子供達を少し…

母が戻ってきて遠藤さんに頭を下げた。

ああ、大丈夫です、ゆっくりされて下さい。

しかし、その後の気まずさといったらなかった。さっき会ったばかりの知らないおじさんと取り残され、口下手な小学生はキョロキョロと辺りを見回した。


初めて見る外国の風景。雰囲気の良い店内で、大人達は思い思いの時間を楽しんでいた。

ガラナ、おいしかった?

遠藤さんが急に口を開いた。

はい!

私達はほとんど同時に答えた。

そうか。これはブラジルの飲み物でね、日本でも買えるかもしれないけど、ブラジルで飲むからとびっきりおいしいんだ。おかわり頼もうよ。

え、でも…

母の怒りの形相が浮かび、私達はうなだれた。

大丈夫大丈夫!

遠藤さんは察したのか、私達を励ますように笑った。

なあ、じゃあおじさんと賭けをしよう。

遠藤さんはさっき抜いたガラナの王冠をつまみ上げ、手のひらに載せてこちらに示した。私達が乗り出すと、

こっちにペンギンが載ってるでしょう?こっちがオモテ。それで、この何もない方がウラ。僕が今から空に投げてテーブルに伏せるから、どっちが出るか当てて。当たったらおかわり頼もうよ。

わあ、やるやる。

母の形相は忘れ去り、私達はそのゲームに夢中になった。

どっちが出るか、先に聞こうか。

ペンギン!

またも私達は同時に答えた。

黒いペンギンに赤い星。その後ろには何て書いてあるのか読めないけどアルファベットがデザインされていて、すごくカッコ良かった。ただ単にそっちが出てほしかったのだ。

さあ、いくよ。

遠藤さんは器用に王冠を空中に投げ上げると、華麗な手さばきでキャッチしてテーブルに伏せた。

さあ、どうかな?

遠藤さんがすーっと手を引いた後にはアンティーク風のペンギンが姿を現した。

やったあ!

運ばれてきたガラナを私達はあっという間に飲み干し、ゴキゲンだった。

ねえ、ブラジル、好きになった?

不思議な事聞くおじさんだなと思ったが、私達は元気に答えた。

はい、好きになりましたー!

それは良かった。ブラジルはすっごくいい所なんだよ。

何だか、そんな気がしてきた。

あの。

すっかり打ち解けて、私は口を開いた。

なんだい?

遠藤さんがおや、という顔をした。

あの。あのう…ペンギン、もらっちゃダメですか?

ああ!

あっはっはと遠藤さんは笑い、快諾した。


いいよいいよ!ちょうどふたつあるね。

やったあ。

あっという間に私達はそれをめいめいのポケットに押し込んだ。

お待たせしました。


父と母が、会社の人と3人で戻ってきた。

あ!

チャリンと音がして、弟がかがんだ。椅子から降りたはずみで王冠がポケットから飛び出したのだ。

どうしたの?

母が問いかけたが弟は何食わぬ顔をして答えた。

いや、何でもないよ。

私は遠藤さんと顔を見合わせて吹き出した。

ー時代は変わった。ー

だけど、ずっと変わらないものもある。遠藤さん、あなたが必死で守ったものは、今もあの国で世代を超えて、幸せを運ぶハチドリ達のように変わらずキラキラと虹色の光を放っていることでしょう。


おっと。40年以上忘れてたけど、あのペンギンの王冠も私の心の宝箱で光ってました。また、遠藤さんと出会えて本当に良かったです。


嬉しかったこと。悲しかったこと。大切な一瞬一瞬を、人はなぜか忘れていく。でもその輝きは、決して消えてはいないのだ。後ろばっかり振り向いていられないけれど。時々は立ち止まって、宝箱を覗いてみるのも良いかもしれない。


昔から何度も勉強しなさいって言われてきたけれど。その答えは、一人一人違うと思う。


遠藤さん。遠藤さんにとって、勉強するのは何のためでしたか?カズサちゃんの問いに、遠藤さんなら何て答えるんでしょう。今、すごく知りたいです。


【ボサノバの女王、空へ】

奇遇にも、ブラジルについて書いていた先日、イパネマの娘を歌い世界的ヒットを飛ばしたアストラッド・ジルベルトさんの訃報が画面に現れた。享年85才。ブラジル出身の彼女はボサノバの第一人者、ジョアン・ジルベルトさんと結婚後、アメリカでレコーディングしてブレイク。


イパネマ海岸はブラジルのリオデジャネイロにある高級住宅街が近い。有名なコパカバーナ海岸からはずっと南側にある。リオのむせるような熱気とカラリと晴れた青空、海の匂いを思い出した所だったのですごく感慨深かった。


飾り気のない素朴さを失わず、これみよがしなアピールの全くない彼女だったが、白黒の画面からは圧倒的な存在感が伝わってくる。アメリカのショービズすら、彼女の中の「ブラジル」に加工をする事は不可能だった。だからこそ、追随を許さない女王として君臨し続けたのだ。


ボサノバファンは口を揃えて言う。「美しい歌手、上手い歌手はいっぱいいる。だけど…絶対彼女なんだよね」何だか説明できないけど、彼女しかいない。それはやはり、カメラの前に立つだけで、メロディを一節口ずさんだだけで、変わらない「ブラジル」を再現し続けた、アストラッド・ジルベルトという奇跡のなせる技に他ならない。