長野の御柱祭
十数年前に縁あって行かせて貰ったことがあります。


キヤリの歌声を真似ながら街を練り歩き
知らない家の人にごちそうになったり
とても楽しかった思い出。
長野の人はとてもオープンで親切な人たちだなぁという印象が残っています。

お祭りにはとても危険なシーンがあり
崖から御柱を落としたり
川の中を渡ったり命懸けで行われる時もあって

でも地元の人たちは
たとえ御柱祭で死ぬようなことがあっても
それは本望なんだ。
と言っていました。



それで私はイサクの物語を思い出します。


神への忠誠心を持っていたアブラハムは
神の指示通り自分の息子イサクを生け贄として捧げ、手にかける直前に
合格~!
となるシーン。


これは何を意味しているのか

最近自分が体験していた事から

そういうことか!
となりました。


生け贄はそのままの意味ではなく

それだけの辛い指示が下されても
(辛い事があっても)
それでもお前はこの物語を信じられるのか
言ったことをそのままやる意思はあるのか?
その姿勢を見せてくれよ

という、神をどう思っているのかの実験だからねっていうこと

だから実際、何が起きたかとかは関係なくて
その行為が目的なのではなくて

指示を聞いて
素直にこっちに向かってくる姿勢はあるのか
ということ。

息子を生け贄に…の究極のメッセージは
お前の拘りとか常識とかのエゴの声を聞くのか
それとも本当の存在の目的で生きるのか
ハッキリ示すためのものであり

結果は関係ない。
本当に生け贄を捧げる事が神がしたい目的なのではなくて

いま、この瞬間、
存在で向かってこれんのか
ってこと。



4/20のシンポジウムに向けて着々とエゴはそぎ落とされ

5月の令和元年に向けて意識は完成へと近付いているなと

身をもって体験していた今日この頃でした!