人間の如何なる努力で

 

もってしても

 

罪の赦しを得ることは出来ません。

 

旧約時代の律法を守ることも

 

人間には不可能です。

 

表面的には守れるかもしれませんが、

 

神は私たちの心の中心、

 

つまり情動までご覧になるお方。

 

行動に表れなくても

 

心で邪な思いを持っただけで

 

行なったと同じだと

 

神は見做されるのです。

 

なので神の御心完全に満たせる者は

 

存在しないのです。

 

しかし、罪の赦しを得ずしては

 

天の御国には決して行けないどころか

 

神との交わりすら持てないのです。

 

そんな私たちを憐れんで

 

神は御子イエスを送ってくださり、

 

神の御心を伝えてくださいました。

 

神の御心は福音書に啓示されています。

 

そして私たちの罪を贖うために

 

御子イエスを死に渡し、

 

その死を自分の罪の身代わりであったと

 

信じて告白する者の罪を赦し

 

神との交わりの回復、

 

つまり義と認めると

 

約束してくださったのです。

 

更には、預言通り、

 

死にて葬られたイエスは

 

三日目によみがえられました。

 

これで罪と死というサタンの二大武器を

 

イエスは無力にされました。

 

イエスの復活はキリスト者の復活の

 

初穂でもありますから、

 

信仰を賜わった私たちも

 

イエスと同じように復活するのです。

 

義と認められたことで

 

霊的には既に復活を遂げた

 

キリスト者ではありますが、

 

まだ肉を帯びているので

 

罪の支配は受けずとも

 

影響は受けます。

 

しかし、キリストが再臨された時には

 

体の復活も遂げて栄化するのです。

 

それを神学的には

 

栄光の啓示と言いますが、

 

その約束がキリスト者の希望の

 

根底をなしているものです。

 

今日、信仰が不安定になるキリスト者が

 

多くなった背景には、

 

復活の希望が夢物語のように思えて

 

それが希望に

 

なり得なくなったからでしょう。

 

しかし、復活は

 

今も昔も信仰のない者には

 

荒唐無稽の夢物語だったのです。

 

今の時代のキリスト者は

 

昔のキリスト者に比べて

 

信仰以外のモノで

 

心を充足できることもあって

 

信仰から力を得る必要性が減ったことが

 

大きな理由でしょう。

 

しかし、復活を信じられないなら、

 

キリスト・イエスの十字架での贖いも

 

不完全なものとなるので、

 

残念ながら、

 

そういう人の信仰は無意味で、

 

救われたかどうかも微妙な状態です。

 

信仰は合理的に理解するものでは

 

ありません。

 

合理的に理解して受け入れるのは

 

信仰でなく納得と言います。

 

中途半端な納得で

 

信仰を得た気色になっていないか

 

自己省察が必要かもしれません。

 

 

 

 

 

神は聖徒たちに、

 

この奥義が異邦人の間にあって

 

どのように栄光に

 

富んだものであるかを、

 

知らせたいと思われたのです。

 

この奥義とは、

 

あなたがたの中におられる

 

キリスト、栄光の望みのことです。

 

(コロサイ1:27 新改訳)

 

 

 

 

 

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