私事ではありますが、

 

私は幾度も大変な経験をしてきました。

 

いや、今もしていると言っても

 

良いかもしれません。

 

キリスト教的な表現を使えば、

 

肉は苦しんでいると言えるでしょう。

 

しかし、その苦しみの数々は

 

決して無駄にはなっていません。

 

その経験があったがゆえに、

 

同じような境遇にある人々に

 

生きた慰めの言葉を伝えることが

 

出来ているように思います。

 

自分もその苦しみを経験したので

 

苦しみを本当に共感できるのです。

 

そうでないと人に言葉など

 

かけられないように思います。

 

キリスト者が恵みと共に

 

苦しみも賜わっているのは

 

そこに意味があるのかもしれません。

 

福音をお伝えするだけなら、

 

教理を話せばおしまいです。

 

しかし、事はそんなに易しい事では

 

ありません。

 

死ぬか生きるかの瀬戸際の人に

 

「あなたは罪人です。

 

悔い改めて福音を信じなさい」

 

だけではだめなのです。

 

それ故に、良きサマリヤ人の譬えも

 

お語りになり、

 

新しい戒めとして愛し合う事を

 

お命じになったのでしょう。

 

愛そうとしても

 

凡夫である私たちは愛してやっていると

 

上から目線になりがちです。

 

しかし、同じ苦しみを経験した人や

 

現在進行形で経験している人であれば、

 

相手に共感して共に悲しみ、

 

共に涙を流し、

 

共に喜びへと向かえるのです。

 

 

 

 

 

神は、

 

どのような苦しみのときにも、

 

私たちを慰めてくださいます。

 

こうして、私たちも、自分自身が

 

神から受ける慰めによって、

 

どのような苦しみの中にいる人をも

 

慰めることができるのです。

 

(第二コリント1:4 新改訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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↑キリスト者は仕え合い

 

愛し合う者です。

 

その交わりにあなたも

 

ぜひ加わってください。

 

お待ちしております。