神は全き方であるが故に、

罪のある者とは交わる事が出来ません。

なので私たち人間が

神との正常な関係を回復するには

罪が赦される必要がありました。

罪とは〈的外れな事をする〉というのが

聖書執筆言語の直訳です。

的は言うまでもなく神でしょう。

つまり神の御心を無視して

自分勝手な生き方をする事を

聖書では罪と言うのです。

その罪の代価は死ですから、

罪を赦していただくには

命を差し出さなければならなくなります。

そこでイエスの初臨以前は

罪を赦していただくために

動物を犠牲にして神に献げました。

しかし罪を犯すたびに

そんなことしていたら

生贄にする動物が

いなくなってしまうでしょう。

実はこの罪の赦しの犠牲の究極として

神の子イエスが十字架で

私たちの罪の贖いのために

死んでくださったのです。

そのイエスの死が

自分の全ての罪が赦されるための

身代わりの死だったのだと

信じる(代償の死)者は、

神がその罪を赦して、

ご自身との交わりを

再開してくださるのです。

神との交わりを担保してくださったのは

イエスの代償の死ですから、

クリスチャンは祈りの末尾を

「イエスの名より」と結ぶことで、

父に祈るのです。

その事に感謝しつつ

神の御心を全うしようとする事を

義を行うと言います。

神はみことばです。

そのみことばが受肉して来られた方が

イエスです。

そのイエスは弟子たちに

お互いに愛し合うように戒められました。

ですからイエスの十字架に感謝もせず、

隣人と愛し合う事もしない者は、

神に属さない者、

つまり悪魔陣営の者とみなされるのです。

これはクリスチャンでない者に

向けての言葉でなく、

使徒ヨハネが教会内部のクリスチャンに

向かって述べた言葉である事を

心に刻まなくてはなりません。

分裂分派が日常化したプロテスタント。

悔い改めが必要かもしれません。



そのことによって、

神の子どもと悪魔の子どもとの区別が

はっきりします。

義を行わない者はだれも、

神から出た者ではありません。

兄弟を愛さない者もそうです。」

(第一ヨハネ 3:10 新改訳)