誤解していただきたくない事があります。キリスト教会に来て、牧師の唱導に従って、意味も分からずに信条を告白して、洗礼を受けても、本当の意味でキリスト者だとはいえません。勿論、救われることもありません。
キリスト教というと愛の宗教のようなイメージがあります。これは決して間違ってはいません。もしここで使われている愛という意味を理解していればの話ですが。
ここで使われている愛とは、自己犠牲の愛です。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ伝15:13)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)
いきなり自己犠牲とは無理でしょう。ですからまずは自分の弱さを認めて、弱さや罪から来る迷いや悩みに縛られないために、全てを神に告白することが必要となります。自分の弱さ、罪深さを認めずしてキリスト者にはなれません。また、それと共に、この世の全てのものに対する執着を絶つことも求められます。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ伝10:37-39)
キリスト者になるとは、生易しいことではないように思われます。ただし、キリスト教は自力本願の教えではなく、他力本願の教えです。
キリスト者が信じる他力、つまり信仰の対象であるキリスト・イエスは、御言を意味しています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ伝1:1)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ伝1:14)
この御言、つまり聖書のことばを生きるのがキリスト者です。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ伝8:31)
であるので、イエス・キリストの十字架の死が聖書的にどういう意味があるのかをはじめとして、聖書の御言をろくすっぽ理解もしていない状態で、牧師の唱導に従って信条を告白して洗礼を受けたところで、イエスの御言に留まっているわけではないので、イエスの弟子としては欠格事由を認めざるを得ません。であれば、真理を知ることも出来ない。真理を知らなければ自由を得ることも土台無理な話でしょう。つまりそのような者はクリスチャンごっこをしているに過ぎないのです。残念なことに、今日、クリスチャンごっこに興ずる者が増えてしまいました。
キリスト者にとって大切な事は、御言を生きることです。ご自身の命を捨ててまで私たちを愛して救いへと導いてくださったキリスト・イエスの御恩に報いるためにも御言に従って忠勤に励む真のキリスト者となれますように。
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キリスト教というと愛の宗教のようなイメージがあります。これは決して間違ってはいません。もしここで使われている愛という意味を理解していればの話ですが。
ここで使われている愛とは、自己犠牲の愛です。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これより大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ伝15:13)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)
いきなり自己犠牲とは無理でしょう。ですからまずは自分の弱さを認めて、弱さや罪から来る迷いや悩みに縛られないために、全てを神に告白することが必要となります。自分の弱さ、罪深さを認めずしてキリスト者にはなれません。また、それと共に、この世の全てのものに対する執着を絶つことも求められます。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ伝10:37-39)
キリスト者になるとは、生易しいことではないように思われます。ただし、キリスト教は自力本願の教えではなく、他力本願の教えです。
キリスト者が信じる他力、つまり信仰の対象であるキリスト・イエスは、御言を意味しています。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ伝1:1)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ伝1:14)
この御言、つまり聖書のことばを生きるのがキリスト者です。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ伝8:31)
であるので、イエス・キリストの十字架の死が聖書的にどういう意味があるのかをはじめとして、聖書の御言をろくすっぽ理解もしていない状態で、牧師の唱導に従って信条を告白して洗礼を受けたところで、イエスの御言に留まっているわけではないので、イエスの弟子としては欠格事由を認めざるを得ません。であれば、真理を知ることも出来ない。真理を知らなければ自由を得ることも土台無理な話でしょう。つまりそのような者はクリスチャンごっこをしているに過ぎないのです。残念なことに、今日、クリスチャンごっこに興ずる者が増えてしまいました。
キリスト者にとって大切な事は、御言を生きることです。ご自身の命を捨ててまで私たちを愛して救いへと導いてくださったキリスト・イエスの御恩に報いるためにも御言に従って忠勤に励む真のキリスト者となれますように。
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