夏も暑くなってまいりました。株式会社はこの亀谷です。

 

さて、今週は「何かをやって無駄だということはない」というテーマで一本書いてみようと思います。

 

時代はタイパだタイパだと言っているし、AIが出てきて効率化だ効率化だと言っていますが、経験は自分でやらないと出来ないわけで、無駄だ無駄だと言っていても仕方がありません。

 

特に時間を多く持っている若い人こそ、短絡的に何かを「無駄」だと決める前に、何故それを「無駄」だと感じているのかを考えてみると良いと思います。

 

 

無駄をどう定義して無駄と考えるか?

そもそも「無駄」の言葉の意味と語源をまずは調べてみます。

 

( 形動 ) 行なっただけの効果がないこと。役にたたないこと。また、そのようなことやそのさま。無益。(出典 精選版 日本国語大辞典)

 

「無駄」は当て字で、もともと「空(むな)」の変化形であるとか、擬態語からとか言われているようですが、その詳細は不明のようです。

 

まぁ、一般的にも「行っただけの効果がない」と思われているものを無駄だと言われます。

 

では、なぜ無駄と思うのでしょうか?

 

その理由は、時間の無駄の「時間の」が省略されているのだと思います。何かを「無駄」だと定義することによって、時間の損失を防ごうとしている、つまりはタイパを上げようとしているわけです。

 

実際は時間は保存できないので、そこで時間を確保しても、その代わりにやることを考えなければ、タイパは成り立たないのですが、感覚的に時間を節約したという満足感があるのでしょう。

 

無駄だと思っているけど、実は必要なものって本当にないのか?

「無駄」には、無駄だと感じる場合と、やってみて無駄だった場合との2種類があると思っています。

 

無駄だと感じてやらない場合は、そこで捻出出来た時間を投資する何かがなければ、時間は保存できないので、結局時間を無駄にします。さらにやれば出来た経験も無駄にします。

 

やってみて無駄だと感じた場合は、やってみたという経験が身体に残り、より具体的に事象を理解した上で判断しているので、次からは時間を効率的に使うことが考えられるようになります。

 

やるやらないの判断は自分の時間の投資判断ですので、選択権はその人にありますが、解像度の低い無駄だという判断は、経験も時間も無駄にしてしまっている可能性があるので要注意です。

 

経験して、学んで、初めて自分ではやらなくて良いと判断できる

人は経験して学ぶ生き物です。

 

子どもの頃から食べず嫌いだったけど、大人になって食べてみたら実は美味しかった。

 

という話を良く聞きます。

 

結局これは、美味しくなさそう→食べる価値がない→無駄だと思う→食べない。という判断を情報だけで行ってしまい、せっかくの経験を失ってしまった結果、長年経験に基づいた正しい判断が出来ていなかったという事例なのではないかと思います。食べてみて美味しくなかったから、次回から止めておこう。の方が判断の精度としては高いですし、自分の好き嫌いを具体的に考える気付きも生んでくれます。

 

だから1度もやる前から無駄だと決めてしまうことは、人生の解像度を下げ、人生の可能性を減らしてしまうことがあるので注意が必要です。

 

人生の時間は有限ですので、選択はしなければいけないのですが、体験価値のあるものをざっくり否定しまうのはやめましょう。

 

自分で判断することの大切さを考えよう

人生を生きていく中で、経験に基づいた判断の質を求められることが多々あります。

 

その際には、1度は多くの無駄を経験しておく必要があります。

 

そこには時代的に強制的に経験させられる無駄もあれば、選んで行う無駄も存在します。

 

そういう経験の積み重ねが、世の中と自分自身への解像度を高めて、より新しい方向性を作り出してくれるはずです。

 

時間は貯められないので、時間を効率化したところで、何もやることがなければ時間は無駄に消化されていきます。

 

むしろ無駄を削り、時間を効率的に使っているつもりで、小さな経験に投資できる時間を捨ててしまっているなんてことが普通に起きています。

 

経験はその時、その場所でしか出来ないものが多いです。

 

どんなことも巡ってきたチャンスは、まずは一度試しに経験してみましょう。

 

そちらの方が最終的に経験が積まれ、判断基準があがり、もっと重要な時間投資の取捨選択をしなければいけなくなるタイミングで、効果的な選択が出来るようになると思います。

 

それでは、今週もお疲れ様でした。皆様、良い週末をお過ごしください。