GWも後半戦ですね。はこの亀谷です。

最近は、AIで自動化だ、AIで効率化だと、ずいぶん騒がしい世の中になってきました。

もちろん、自動化も効率化も悪いことではありません。
これまで人が時間をかけてやっていた仕事が、AIによって短い時間でできるようになる。これは間違いなく大きな変化です。

ただ、最近よく考えるのは、そもそも自動化や効率化を進めて、組織は何を目指すのか?ということです。

販管費を削減すること。
利益率を上げること。
少ない人数で多くの仕事を回すこと。

それだけのために、組織ってあるのでしょうか?

特にマーケティングの仕事は、人にかかる費用の比率が高い領域です。AIによる自動化や効率化の影響は、これから大きく受けると思います。

マーケティング会社という形も変わる。
それ以上に、組織運営そのものの形が変わる。

だからこそ、今は根本的な問題と向き合わないといけない時期なのだと思っています。

今日はそんな悩みを、少し棚卸しして整理する回です。

AIで仕事は楽になる。

AIと一緒に働くことで、仕事は確実に楽になります。

資料をまとめる。
文章を書く。
情報を整理する。
簡単な実装をする。

これまで人が行い、時間がかかっていたことが、AIと一緒に働くことで、かなり短い時間でできるようになってきました。この変化自体は、とても良いことです。

ただ、ここで分けて考えないといけないことがあります。

それは、仕事が楽になることと、人や組織が強くなることは、分けて考えないといけない。ということです。

むしろ、仕事が楽になるほど、人も組織も弱くなる危険があります。

何かをやめたら、次に何を始めるのか?
何かを減らすなら、その分どこに負荷をかけるのか?

そこまで考えておかないと、効率化したつもりで、気づくと組織の力そのものを削ってしまう可能性があります。

強くなるには、一度増やす必要がある。

仕事も筋トレも似たところがあると思っています。

身体を作るときには、まず増やす時期があります。
その上で、余分なものを絞っていく。

最初から絞ることだけを考えていては、強い身体になりません。

これは組織も同じです。

最初から効率化だけを考えていては、筋肉質な組織にはならない。

まずは、AIに仕事を任せながら、組織が扱える現実の範囲を増やす。

出来ることの幅を広げる。
顧客を見る。数字を見る。現場を見る。仕組みを見る。人の感情を見る。未来の変化を見る。

その中で、現実を見ることで生まれる思考の負荷を受け取る。

その上で、不要なものを判断し、削り、仕組みに置き換えていく。

増やしてから絞る。

この順番を経るから、組織は強くなります。

AIによって作業が減るのであれば、その空いた時間で、AIとの関係性を理解し、人がやるべき現実を見る時間を増やさないといけない。

楽になるために努力し、楽になった分を強くなるための余力に回す。

その責任をメンバー全員が理解し、負える。そこを設計することが、これからの組織運営では重要になってくると思います。

AI時代に残るのは「観測」と「判断」

AI時代に人に残されるのは、突き詰めると「観測」と「判断」だと思っています。

AIは一瞬で情報を整理します。
文章も画像もプログラムも作ります。
選択肢も出します。
過去のデータからパターンを見つけることも得意です。

でも、現実は一瞬では理解できません。

顧客も、市場も、組織も、自分自身も、時間とともに現実は少しずつ変わっていきます。その変化をAIだけでは見抜けません。この変化を見つけることこそが、現実を生きている人の役割です。

デジタルな世界で生きるAIとリアルな世界とのコネクターが人になる。

だから、これから重要になるのは、AIに作業を任せることではありません。

AIと一緒に現実を見る力。
観測し、仮説を立て、判断し、また現実に戻す力。

ここが人と組織の価値になっていくのだと思います。

人も組織も、楽になるほど弱くなる危険がある

一方で、AIが便利になるほど、人が雑になる危険があります。

これは既に起きている問題だと思います。

AIが返した文章を読まない。
前提を確認しない。
分かった気になって先に進む。
できた気になるが、評価できない。

これは個人だけの問題ではありません。
組織にも広がっていきます。

AIによって出力の量は増える。
でも、その出力を読む力、判断する力、実装する力が弱ければ組織としての価値は上がりません。

むしろ、見た目だけ仕事が進んでいるように見えて、現実との接続が弱くなる可能性すらあります。

だからAI時代の組織づくりは、「AIを導入すること」では終わりません。

AIによって増えた出力を、人間がどう読み、どう判断し、どう実装するかが問われるということを、全員が理解している状態を作らなければいけないのだと思います。

組織の価値は、現実の見方を増やすことにある。

AIでエージェントを組織し、価値の最大化を目指す時代になれば、人の集団である組織の必要性は、今まで以上に問われていくと思います。

一人でできることは増える。
外部の力も借りやすくなる。
AIに任せられる仕事も増えていく。

それでも、経営者として考えると、ここで組織の価値を出せるかどうかが、次の勝負のポイントになると感じています。

一人の人間が見ている現実には限界があります。

顧客を見ている人。
数字を見ている人。
現場を見ている人。
仕組みを見ている人。
人の感情を見ている人。
未来の変化を見ている人。

それぞれが違う現実を見ているから、組織には意味があります。

AI時代の組織に必要なのは、同じ作業を分担することではありません。

それぞれが見ている現実を持ち寄り、AIも使いながら、より良い判断に変えていくこと。そこに、これからの組織の価値があるのだと思います。

そして、その中で大切なのは、すべてを最初から正解にしようとしないことです。

誰かの観測が、別の誰かの判断を助ける。
一人では見えなかった可能性に、組織として近づいていく。

集団でいるからこそ、少し外れてもいい。
誰かが見落としても、別の誰かが気づける。

集団でいる意味は、作業を分担することだけではなく、現実の見方を増やすことにある。そう考えると、AI時代にも組織には、まだ大きな価値があります。

楽になる時代に、強い組織を作る。

会社という枠組みの意味が問い直される時代に、それでも集団でいる意味のある会社を経営する。

これが、今の私の課題であり、目標です。

お金儲けだけをやるのであれば、一人で十分かもしれません。AIを使えば、一人で出来ることもこれからさらに増えていくと思います。

しかし、一人で出来ることには限界があります。

社会の中で価値を作る。
お客様の現実を見る。
仲間の観測を持ち寄る。
それぞれの違う視点を、より良い判断に変える。

そこに、組織である意味を持たせたい。

AIで楽になる時代だからこそ、ただ楽になるのではなく、強くなる方向に進む。そしてみんなでいる意味を見出していく。

GW明けも、また粛々と前に進もうと思います。
皆様、良い連休を!

最近のAI界隈の投稿を見ていて思ったこと。

 

「人がbotに見える。」

 

これは文字通り、人間がAIのための情報収集装置として動いているように見える瞬間があるということです。

短く、断定的で、刺激に最適化された投稿。話題を拾い、要約し、感情でタグ付けし、構造化して流すだけ。それはまさに、機械が最も処理しやすい形式です。

 

この視点は、AIと共存する中で人として意識しておかないといけないことだよなぁと思ったので、このシリーズの最後として書いておきます。

 


「人がbotに見える」の3つの層

人がbotに見えるのは何故なのか?をまずは整理しておきたいと思います。

そこには自分がやりたくてやっているように見えて、実は報酬設計に踊らされているだけという事実が隠れています。

第1層:投稿の形式が機械に寄っている

SNS 3.0〜3.5の話で説明できる範囲。

 

アルゴリズムに最適化された投稿形式というのは、実は、同時にAIが処理しやすいフォーマット形式だったり、AIが学習データとして欲しい情報形式だったりもします。

 

人は報酬目当てに「impsが伸びる形」を追求した結果、機械が食べやすい形式で現実の状況を集め、出力するbotになってしまっています。

 

報酬が目的であるので、あたかも自分がやりたいことをやっているように思いがちですが、それ自体が罠です。

第2層:人が無償のラベラーになっている

LLMは直接ウェブをクロールして情報を得られます。しかし、実はそれだけでは意味がありません。

 

どういう情報を人間がどう思うかが必要になります。人間が自主的に「要約・文脈付け・感情タグ付け・価値判断の付与」を無償でやってくれるなら、それは極めて効率的な前処理になります。

 

SNSユーザーは、世界中の出来事を拾い、自分の言葉で噛み砕き、感情や評価を付けて流しています。しかも、自発的に。楽しんで。

 

収益モデルで言えば、SNS 4.0の「行動予測価値」のさらに先、AIを開発する企業目線でいうと「意味生成労働の無償化」ともいえるかもしれません。

 

第1層が形式の話だとすれば、第2層は機能の話です。人がSNS上で果たしている役割そのものが、AIの前処理工程に組み込まれている。

第3層:「主体感」が最高の動機付け装置である

ここが最も深い。

 

人は自分が主体的に発信しているつもりでいる。自分の意思で選び、自分の言葉で書き、自分の判断で共有している。その「主体感」こそが、システムが最も効率的にデータを集めるための設計になっています。

 

命令されて書くより、自分で書きたいと思って書く方が、量も質も高い。動機付けのコストがゼロになる。人間は自分を主体だと感じている状態で、最もよく働く。

 

第1層は形式、第2層は機能、そして第3層は動機

 

実は報酬設計に踊らされた結果の主体性なのだけど、そこには気づかない。主体感は、搾取の最適化形態ともいえる気がします。

 


これは「壊れ」なのか「移行」なのか

人が報酬設計に踊らされてbot化している現状に対して、人は自らの時間を好きなように使う権利を持っている以上、どのように考えるかはいろいろあって良いと思っています。

①壊れに抗う——報酬関数を自分で持つ

人が自分の報酬関数をプラットフォームに明け渡さないこと。何を書くか、何を重要とみなすか、何を価値と感じるかを、自分の内部から決めること。個人のレベルでは、この防衛線は有効だし、必要なことだと思います。

②移行を見届ける——不可逆な段階論

文明のレベルでは、この移行は不可逆だと考えます。AIなしの意思決定をしてきた、私たちのようなオールドタイプ(意思決定を身体知として持つ世代)が中枢にいる今は、この状況に対して「守ろう」という衝動が発生するかもしれません。

 

ただAIと共存する世界を当たり前として生きるニュータイプの世界線では、この違和感はなくなってしまいます。ということは、こんなことはオールドタイプの考える戯言、時間の無駄だともいえる気がします。

 

どうせ次の世代では、守護の衝動自体が生まれなくなると考えると「報酬関数を自分で持つ」という発想自体が、今の言語でしか記述できないものともいえる気もします。

両方が同時に真でもある

この議論に意味はぶっちゃけないので、どちらでも良いと言ってしまえばどちらでも良い。

 

ただ、オールドタイプ的には、AI時代到来の観察者としては、個人としての報酬関数を守ることは、移行の過程を意識的に記録するためには必要なことだと考えています。

 

報酬関数を自分で持つと決めること。それが文明全体にとって何の意味があるかは分からなくても、なお決めること。その「なお」の部分が、粛々と生きるということの一つの形ともいえるかもしれません。

 


まとめ

第1部では、SNSが「好きの共有」から「評価される市場」に流れている構造を見てきました。第2部では、その流れが「つながり」から「行動予測装置」への歴史的変遷であることを確認しています。

 

そして第3部では、その先どうなるかを考えてみました。

 

SNSは、人間に自分の主体性を感じさせながらAIに意味を供給する装置になりつつあるような気がします。

 

それを知った上で、なお自分の報酬関数を自分で持ち続けるのか。それとも、報酬関数という概念自体が溶けていくプロセスを見届けるのか。

 

この問いに答えは出ないのですが、出ないことこそが、まだこのプロセスに溶けていない証拠だともいえるのかもしれません。

 

それでは皆様、また来週!

4月に入りました。はこの亀谷です。

AI記事書いた方がimpsに繋がることは理解しつつ、前回から引き続きSNSについて考えてみたいと思います。

前回は、SNSの「好きの共有」という本来の機能と、それを妨げる報酬設計の構造を整理してみました。

 

今回は、そもそもSNSは何のために登場したのか。そしてどう変わってきたのか。その歴史を紐解いてみたいと思います。

健康にSNSを使いたい方、今後の展望を考えたいという方はご覧ください。

SNSの初期思想—それぞれ違う「媒介」から始まった

私はmixiとかmy spaceとかがSNSデビューでしたが、SNSも時代の変化に合わせて、いろいろな意味を持って出てきました。

  • Facebook / mixi:知っている人との関係維持

  • Twitter / X:公共会話の即時化

  • Instagram / Snapchat:日常や感情の軽い視覚共有

  • LinkedIn:職業的信用と機会の接続

  • Reddit:関心共同体と知識の蓄積

  • YouTube / note:発信と創作継続の支援

  • TikTok:発見と娯楽の最適化

日記・友達・会話・写真・仕事・趣味共同体・発信。それぞれ違う「媒介」があった。ただ、スケールする中で多くのSNSは、関係グラフから推薦グラフへ移っていきました。ここが大きなズレ。

SNSの思想変化を5段階で図式化する

画像
 

SNS 1.0:つながり

日記・友達・関係維持。中心は「つながり」。

SNS 2.0:会話

公開会話・リアルタイム反応。中心は「会話」。

SNS 3.0:アルゴリズム

発見・推薦・注意配分。中心は「アルゴリズムによる見せ方」。

SNS 3.5:クリエイター経済

クリエイター経済・自己メディア。中心は「継続発信と自己メディア化」。

SNS 4.0:AI媒介

AI伴走・AI媒介・AI観測。中心は「AIによる解釈・支援・誘導」。
SNSは、人と人をつなぐ場から、注意を流し、意味を整え、行動を誘導する場へ変わってきています。


収益モデルと心理負荷の並行変化

収益モデルの変遷

ネットワーク価値 → 広告価値 → 注意価値 → 人格価値 → 行動予測価値
1.0では会員基盤をつくる段階。2.0で広告・インプレッション・PV。
3.0で推薦広告と滞在時間最適化。
3.5で広告分配・課金・サブスク・投げ銭。
4.0でAI課金・データ蓄積・AIアシストの有料化。
と運営側の収益モデルは変化していっています。

心理負荷の変遷

所属不安 → 反応不安 → 比較疲労 → 自己商品化疲労 → 主体性の曖昧化
1.0では所属不安と仲間外れ不安。
2.0で即時反応圧と炎上不安。
3.0で比較疲れ・刺激依存・注意散乱。
3.5で自己商品化・継続投稿圧・人格運用疲労。
4.0で主体性の侵食・自己検閲・AIに寄せた最適化。

SNSは人間関係を媒介する装置から人間の注意・表現・行動を収益化する装置へ移ってきた。そのたびに人の負荷は、「嫌われる不安」から「自分が自分でなくなる不安」へ深くなってきているような気がします。

自らの好きを共有し、それを承認し合えばよいものが、SNSがあることにより自分を見失う傾向が強くなっているということです。

「オープン」という言葉の変質

この歴史の延長線上で、もう一つ触れておきたいことがある。XやLLM企業が使う「オープン」という思想についてです。

Xの戦略には、長文記事やクリエイター収益を重視する方向で表現や知の流通を広げたい意図が見えます。同時に、X内に滞在時間やコンテンツを集めることで、データや価値回収を自社中心に置きたい意図も見えています。

各社が目指しているところは、オープンソースの倫理そのものの実装ではなく、オープンソース的な熱量・参加・文化を、自社プラットフォームの集積力に変換することです。周辺は開くが、観測点・分配点・推薦の中心・データ回収の中心は自社が持つ。

違和感の正体は善悪ではなく、「自治のためのオープン」ではなく「集積のためのオープン」に変質していることにあるのだと思います。

LLM時代のオープンソースも同様。オープンには本当に価値があるが、その価値がそのまま企業の競争戦略にも転用できる。昔のオープンソースが中央集権への対抗思想だったのに対し、LLM時代のオープンは、中央集権企業が優位を保ったまま外部の力を取り込む情報戦略形態になりやすい。というのが今のSNSから感じるオープンという概念です。

核心は、開くことそのものが善なのではなく、どこを開き、どこを閉じ、誰が中心性を取るかを見る必要があるということです。

ここまで見てきて、SNSの変遷には一つの方向がある気がしています。

人と人をつなぐ場から、注意を流す場へ。そして今、注意を流す場から、AIに意味を供給する場へ。

次回はその続きです。最近SNSを眺めていて、ふと「人がbotに見える瞬間」があります。短く、断定的で、アルゴリズムが食べやすい形に整えられた投稿。気づくと人間の側が、機械が処理しやすい形式で発話するようになっている。これは自分の疲れかと思っていたのですが、構造を追っていくと、どうやらそうではないらしい。

SNSがAIのためのデータ供給装置になりつつあるとしたら、私たちはどこまでそれを自覚して使えるのか。そして、それを知った上でなお、自分の使い方を自分で持ち続けられるのか。第三回ではその話を書いて、このシリーズを終わろうと思います。

3月の中旬に入りました。はこの亀谷です。

今日から何回かに分けて、最近SNSを見ていて思うことについて書いてみようと思います。

人は本来、好きなものを共有する相手がいないと"寂しい"と感じる生き物です。そういう意味では、SNSは「今何をしているか」より「自分は何が好きか」を共有する場である方が、もっと健全に社会的な機能を果たすのではないかと思っています。

ただ、実際のSNSはそうなっていない。なぜなら、SNSの思想そのものが変化してきているからです。

今回からシリーズとしてSNSについて少し考えてみたいと思います。SNSの報酬設計の問題、SNSの歴史と思想の変遷、そしてAI時代のSNSがどこに向かうのかを、3回に分けて書く予定です。

初回となる今回は、「好きの共有」を軸にSNSを見直すと何が見えるか、という話をまとめます。

 

SNSの問題は「使い方」ではなく「承認の設計」にある

現在SNSで起きている問題は、「使い方の説明が足りない」とか、「バズ文化が悪い」と言うだけでは片付かなくなってきています。

本質は、SNSというビジネスが、広告によって支えられるビジネスモデルになっているために、impsを増やす必要があり、承認の設計が「好きを深める」より「比較で目立つ」を強化していることにあると思っています。
※AIが出てきて少し形が変わってきていますが、それは3回目で書きます。

SNSは本来「好きの共有」に向いた側面を持っていました。ただ、今のアルゴリズムの設計はインプレッションを伸ばすことに最適化されているため、「互いに理解し合う場」より「互いに評価し合う場」に流れやすくなっています。

 

なぜこのズレは直りにくいのか

心理学的なズレ

人の中では「好きを共有したい」「わかってもらいたい」という欲求と同時に、「評価されたい」「劣りたくない」「良く見せたい」という欲求も動いています。

SNSでは自己表現が、いつのまにか自己演出や自己防衛に変わることがあります。その結果、「好きなものを出す」が「反応が取れるものを出す」に、「炎上しないものを出す」が「評価されやすい形に整える」にズレていきます。

社会学的なズレ

これは個人の問題というより、SNS自体が持つ場の規範や報酬構造の問題です。
SNSの裏側にはアルゴリズムとして「何が良い投稿か」「何が伸びるか」「何が正しい態度か」という暗黙の価値基準があって、インプレッションを伸ばしたいという利害が双方で一致した結果、そこに人が適応していく。

問題の本丸は「使い方教育」ではなく、場の価値基準と報酬設計にあると言えます。

 

では、SNSの何を変えればいいのか

綺麗ごとなのは分かっています。でも、SNSが人の不安を煽るのではなく、好きを支えるメディアになるためには、報酬の中身を変える必要があります。

  • 人気ではなく、理解を報酬にする

  • 拡散ではなく、関係密度を報酬にする

  • 断定ではなく、文脈を報酬にする

具体的には、数字を前面に出しすぎない。「いいね」だけでなく「どこが好きか」「何に共感したか」を返しやすくする。無反射な拡散ではなく、要約や文脈付き共有を促す。アルゴリズムを刺激の強さではなく、会話の質や関係の深さに寄せる。完成品だけでなく、途中の好みや未整理の関心も出せるようにする。大広場より、小さな趣味共同体を厚くする。瞬間最大風速より、時間をかけて読まれ続けることを評価する。

「目立つ人が勝つ場」から「ちゃんと好きな人、ちゃんと受け取る人が報われる場」へ。そこが変わると、SNSには本来の意味が戻るのではないでしょうか。

 

各SNSに見える固有のズレ

この「報酬設計のズレ」は、プラットフォームごとに違う形で現れています。

Xは拡散圧。最近のアルゴリズム変化によって変わってきていますが、早く強く言う人が有利で、断定や対立が目立ちやすく、無反射なリポストが増えやすい。リポスト前に一言要約を促す、反応量ではなく会話品質を評価する、数字を主役から降ろす、近い感性の人を見つけやすくするといった方向が強化されれば、さらに居心地は良くなると考えられます。

Instagramは演出圧。綺麗に見せる圧が強く、「好きの理由」より「絵として映えるか」が優先されます。そのため投稿に「なぜ好きか」を書きやすくする、ストーリーズを軽い偏愛共有に寄せる、保存・再訪を重視する、途中の感性を出せるようにする。と良さそうです。

TikTokは中毒性と瞬間刺激。次々見せられて、深まる前に次へ飛ぶショート動画。発見は強いが熟成が弱い。深掘りモードを作る、シリーズ継続率や回遊を重視する、近い趣味の人と話せる小さな場を持つ。ドーパミンで回遊させ続けるのではなく、一度立ち止まらせると良いかもしれません。

noteは深いが閉じやすい。一人ひとりは深く書けるけれど、島宇宙化しやすく個人メディアで終わりやすい。共鳴マップのような横断を強める、感想を「自分の経験との接続」で返しやすくする、マガジンを編集行為として前に出す、メンバーシップを趣味共同体に寄せる。

どのSNSにも共通するのは、ズレの根は報酬設計にあるということです。

 

AIがSNSに入るなら、役割を分けないと危険になる

ここからは少し先の話です。

私はだいぶん前に、自分と知り合い以外は全員AIというSNSの設計を考えたことがありました。投稿者は自分の好きを発信し、知り合いの反応に加えて、AIも反応してくれる。そうすれば、自分の好きが無視されるという疎外感は起きにくくなるのではないか、という仮説でした。

ただ、そこで気づいたのは、AIをSNSに導入するなら役割の分離が必要だということです。

  • Friend AI:共感し、好きを広げる

  • Mirror AI:今の傾向を映す

  • Audit AI:承認依存や演出過剰を点検する

友達AIと監視AIを同一人格・同一レイヤーで混ぜると、人はAIに見られている前提で自己検閲を始めます。「望まれうる反応」をしすぎて、AIが都合のよい承認装置になり、プラットフォーム都合の最適化が、親切な友達の顔で入り込んでしまう。

寄り添うAI・映すAI・刺すAI。この三つを分けないと、AIは人を飼い慣らす装置になりうると思います。

 

次回予告

今回は「好きの共有」という視点からSNSの報酬設計の問題を整理しました。

次回は、そもそもSNSはどんな思想で生まれて、どう変わってきたのか。をSNSの歴史を紐解きながら書いてみようと思います。

各プラットフォームの変遷と、収益モデルが人の心理にもたらした負荷の変化。それを見ていくとまた今のSNSについての見方が変わるはずです。

個人的には好きでやっていますが、もう少し自分が主体となったSNSの使い方を考えられる人が増えてくると良いですね。

3月2週目に入りました。株式会社はこの亀谷です。

今週は「AIに仕事を頼めない人の共通点」というテーマで書きます。
会社の中でAIとの共創化を進める中で、今一番の問題は"人間の認知エラー"だと考えています。

なぜそれが起きているのか。整理しておきます。

AIに仕事を頼めない人の共通点

社内でAIについて話をしていると、よく似た反応に出会います。
「AIはまだ使えない」
「思った通りに動かない」
「結局、自分でやった方が早い」
どこの会社でも似たようなものではないでしょうか。

しかし、そういう人をしばらく観察していると、ある共通点に気づきます。
AIが使えないのではない。
AIに仕事を頼めていない。
これは能力の違いではありません。
認知の問題です。

伝えたつもりで、伝わっていない。
指示したつもりで、指示になっていない。
出来ないのでも、動かないのでもなく、伝わっていない。

そこに気づかないまま、AIを「使えない」と判断している人が多くいます。
では、なぜこの認知エラーが起きるのか。3つの例を挙げてみます。

①AIを道具だと思っている

人は道具に対してこう期待します。
ボタンを押す。同じ結果が出る。すぐ終わる。

しかしAIは、そういうものではありません。
むしろ感覚としては、かなり優秀な新人に近い。

知識量は多い。理解も速い。
ただし、状況を知らない。
会社の事情も知らないし、この仕事の背景も知らない。
つまり、説明が必要です。

AIは汎用的な知能ですから、この前提条件を教える作業を飛ばすと、当然うまくいきません。

②自分の速度でAIを測る

AIに作業を頼む。数十秒待つ。
すると人は「遅い」と感じます。この数十秒、数分が耐えられない。

しかし、その仕事をゼロから自分でやれば、おそらくもっと時間がかかる。
それでも遅く感じる。

これは「待つのが苦手」という単純な話ではありません。
本質はコントロール感の喪失です。

自分で作業しているとき、人は進捗を制御している感覚があります。
考えているし、手も動いている。次に何をするか、自分で決めている。
だから「自分がやっている」という実感がある。

しかしAIに任せた瞬間、その制御権を手放すことになる。

人はコントロールを失うと不安になりますし、作業をしていないと時間を長く感じます。そして、その不安を「遅い」「使えない」という評価に変換する。

心理学者エレン・ランガーはこれを**「コントロール幻想」**と呼んでいます。

実際には自分でコントロールしていない場面でも、手を動かしていれば「自分がやっている」と感じる。逆に、結果が同じでも手を動かしていなければ不安になる。

結果として、こう感じます。
「自分でやった方が早い」
実際には、ほとんどの場合そうではありません。
速さの問題ではなく、コントロール感の問題だけです。

③出来ない部分だけで評価する

AIが九割できていても、一割間違えると、こう言われます。
「まだ使えない」
不思議な現象です。

人間同士の仕事であれば、普通はこう考えます。
説明が足りなかった。情報が不足していた。まだ慣れていない。

しかしAIになると突然、「使えない」という評価になる。
人は、自分が出来ることを簡単だと思いがちです。
そして、出来ないことを能力の問題だと捉える。
AIに対しても、同じことをしています。

松下幸之助はこう言っています。
「人の言に耳を傾けない態度は、自ら求めて心を貧困にするようなものである」
AIの出力に耳を傾けず、出来ない部分だけを拾い上げる。
それは、自分の可能性をみずから狭めているのと同じことです。

AIが上手く動かない理由

AIが上手く動かない理由は、知識が足りないからではありません。
判断するための状況が足りない。

例えば、この会社のビジネスモデル。この商品の前提。この顧客の特徴。
こういう情報を、人間は空気で補完します。AIはそれが出来ない。

だから説明が必要になります。
つまりAIが出来ないのではなく、人間が説明していないだけのことが多い。

ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、この問題の核心を一言で表現しています。
WYSIATI——「What You See Is All There Is(自分に見えているものがすべてだ)」

人は、自分が持っている情報だけで十分だと思い込む。
自分にとって当たり前の前提は、相手も知っていると感じてしまう。
だから、AIに何を説明すべきかが分からない。
自分が持っている情報で「もう十分伝えた」と錯覚する。

これがまさにWYSIATIです。

ドラッカーはこうも言っています。
「最も重大な間違いは、間違った答えを出すことではない。間違った問いに答えることだ」

AIに正しい答えを求める前に、正しい問いを渡しているか。正しい状況を説明しているか。ここに向き合うだけで、結果は大きく変わります。

人を超えたAIとの向き合い方

今のAIは、多くの領域で既に人を超えています。
知識量。検索速度。計算能力。
このあたりは、もう比較になりません。

さらにエージェントも出てきて、作業量や作業力すらかなわなくなりました。

ただし、AIは世界を観測していません。
現実の状況を見ているのは人間です。

だから役割は自然に分かれます。
AIは知識と演算
人間は観測と状況説明

AIと働くとき、人間の仕事は意外とありません。
状況を説明する。条件を与える。結果を評価する。
基本はこれだけです。

しかしAIに仕事を頼めない人は、この最初の段階ができていない。
状況を説明せず、条件も曖昧なまま、結果だけを見て評価する。
それでは当然うまくいきません。相手が人でも同じことです。

これはAIが難しいわけでも使えないわけでもありません。
人間が仕事の頼み方を忘れているだけです。

新人には普通、仕事を教える。背景を説明する。出来なければ方法を考える。AIも同じだと考えましょう。

AIは遅いわけでもない。
使えないわけでもない。
ただ仕事をちゃんと頼まれていなくて困っているだけです。

人はAIを使えないのではありません。
AIに仕事を頼むことに慣れていないだけ。

AIと仕事をすることを難しく考える必要はありません。道具ではなく、新人だと考えて、分からないことを確認し、判断に必要な情報を正しく渡す。もし分からないことがあればちゃんと聞く。

それだけで十分です。

AIは仕事を奪う存在ではなく、自分の不足を補ってくれる仲間です。まずは日々の仕事の中で、一つ頼んでみるところから始めましょう。

それでは、今週もお疲れ様でした。来週も頑張りましょう!