GWも明けましたね。株式会社はこの亀谷です。
最近、朝起きてSUNOで1曲作って、その曲を聞きながら出社する、という生活を始めてみました。
自分で作っているからかもしれませんが、毎回「良い曲だなぁ」と思いながら通勤しています。
少し前なら、作曲は自分とは遠い場所にあるものでした。曲は作れない。楽器も弾けない。理論もわからない。それでも今は、テキストを入力すれば、それっぽい曲ができてしまう。
本職の人から見れば粗いところは多いと思います。それでも、にわかでも触れる領域がここまで広がっていること自体は、面白い変化です。
音楽だけじゃない。動画も、画像も、資料も、アプリのようなものも、業務の仕組みも、以前よりずっと小さく試せる。やれることが、増えています。
ただ最近、それを使えば使うほど、寝る前にどっと疲れが襲ってきます。今日はその話です。
頭は拡張される。でも、身体は拡張されない
AIは、人間の頭をかなり拡張してくれます。
調べる。整理する。文章にする。構造化する。別案を出す。自分では見えていなかった論点を返してくれる。数時間かかっていたことが、数分で進む。ぼんやりしていたものに、輪郭が与えられる。
これは本当にすごいことです。
ただ、使い込むほどに気づくことがあります。
AIは頭を拡張するが、身体は拡張してくれない。ということです。
考えられる量は増える。選択肢も増える。作れるものも増える。試せることも増える。
でも、それを使って何かをする自分は1人しかいません。最後は、自分の時間と身体とエネルギーにかかっています。判断する集中力も、感情の余裕も、1日の時間も、増えるわけではありません。
それなのに頭の中だけが情報とやりたいことで膨張していき、現実の身体はそのまま残されている。
この非対称が、いわゆる最近の「AI疲れ」の正体かなぁと思っています。
楽しいからこそ、やり過ぎる
AI疲れというと「情報が多すぎて疲れる」話に聞こえます。もちろんそれもあるのですが、私の実感はもう少し違います。
怖いのは、楽しいからこそ、やり過ぎることです。
できなかったことができる。すぐに形になる。反応が返ってくる。また改善したくなる。もう少し試したくなる。
起きている時はもちろんですが、寝る時間まで削ってやってしまう。しかもプライベートだけではなく、仕事にも関わってくるので、仕事のようで遊んでいるようで、遊んでいるようで仕事にもなっている。だから止めどころが難しい。
そして、これも出来るならあれもと頭の中には次々にやりたいことが増えていきます。
「この仕組みも作りたい」「この投稿も直したい」「この資料も作り直したい」「この業務も改善したい」「このアイデアも試したい」――。
でも、現実に動かすには、結局自分の時間と身体を使うしかありません。
AIが文章を作っても、公開するか決めるのは自分。 AIが企画を出しても、実行するのは自分。 AIが選択肢を出しても、何をやらないかを決めるのは自分。
AIで大量生産したものをただ出すというのには抵抗があるので、そこまで考えていると、AIで楽になるはずが、むしろ疲れていくんです。
AIヴァンパイアという感覚
最近、「AIヴァンパイア」という言葉を目にすることがあります。
AIで生産性が上がる。より多くのものが作れる。より早く仕事が進む。一見、人間は楽になる。
でも実際には、増えた生産性の分だけ、さらに多くの仕事が流れ込んでくる。
「AIで早くできるなら、もっとやれるはず」 「AIで作れるなら、もっと案を出せるはず」 「AIで整理できるなら、もっと判断できるはず」
そうやって、人間の側に残っている集中力、判断力、責任感、体力が吸い上げられていきます。
これは会社や社会の構造としても起こっています。でも、もっと厄介なのは、自分の中でも同じことが起こることです。
「もっとできるはず」「せっかくできるなら試したい」「ここまで来たなら、もう少し進めたい」。
外から吸われているのではなく、自分で自分のエネルギーを吸い上げてしまう。楽しいはずなのに、なぜか疲れている。 自由になったはずなのに、なぜか追われている。 できることは増えたはずなのに、なぜか余裕がない。
AIそのものが怖いというより、AIによって広がった可能性を楽しんで追っているようで、気づくと自分で自分を消耗してしまっている。
そんな感じでしょうか。
頭の中だけがMatrix化していく
映画『マトリックス』では、人間は仮想世界の中で普通に生きているつもりになっていましたが、実際には、機械にとって効率的なリソースとして使われていた。という話がありました。
現実がそのまま映画になるとは思っていませんが、あの世界観は今のAI時代にも繋がる示唆があります。
AIを使っているつもりが、AIによって増えた作業量を処理する存在になる。 考えているつもりが、AIが出した選択肢をさばくだけになる。 判断しているつもりが、流れてくる情報に反応しているだけになる。人は食べて寝れば、また明日も動ける。だからこそ、自分のエネルギーを差し出し続ける構造に、知らず知らずはまっていく。
可能性の世界は広がる。いくらでも別案は出る。いくらでも未来は語れる。いくらでも作った気になれる。
でも、現実は動いていない。
これは、かなり危ない状態だと思います。
最後に必要なのは自分のエネルギー
AI時代に最後に必要なのは、結局エネルギーなのだと思います。
気合いのことではありません。
身体の余力、感情の安定、集中力、現実を見る力、決める力、続ける力、責任を引き受ける力。人間が現実に接続するための土台としてのエネルギーです。
知識や情報処理の価値は、これからますますAI側に寄っていくでしょう。それでも、現実を前に進めるには、最後に人が動かないといけない。
問いを立てる。違和感を拾う。現場を見る。数字に触る。人と話す。決める。やる。やり直す。粛々と続ける。
ここは、AIに渡しきってはいけない。
AIは頭を拡張する。だからこそ、身体と現実を手放してはいけない。
情報量は増え、便利になる時代だからこそ、自分が何を考え、何にエネルギーを使うのかの配分を、より意識しなければならない時代になってきます。
やれることが増えた時代だからこそ、全部やろうとしない。
何をやるのか。何をやらないのか。何に自分の身体を使うのか。 こうした、人が生きていく上で当たり前の問いに、自分の言葉で答えられること。それがこれからのAI活用において、たぶん一番大切になっていくのだと思います。
方向性を決めて、自分のやりたいことを粛々と前に進めていきましょう。それでは、今週もお疲れ様でした!

